親が見ている
五月の終わり、一年B組の日和田さんが、生徒会室のドアの前に立っていた。
彼女は入ってこなかった。私が用事を終えて出ていくまで、十五分そこにいた。ドアには小窓がある。私は、その小窓の向こうに人影があることに、十分気づいていなかった。
「相談していいですか」
「いいわよ」
「あの、犯人が家族でも、いいですか」
日和田さんの母親は、有名だった。
私は知らなかったが、その世界では知られている人らしい。育児の投稿をしている。フォロワーは八千人いた。八千人が何を見に来ているのかは、私にはわからなかった。
「小三のときからやってます」
彼女は、椅子に浅く座った。
「私、出てます。毎日」
「顔は出てないです」
彼女はスマホを見せた。画面の明るさが、最低まで落としてあった。
「モザイクかかってるんで。名前も『長女』ってなってるんで。……大丈夫だって、母は言うんですけど」
投稿は、どれも丁寧だった。写真も文章も上手い。悪意は、どこにもなかった。
『長女、模試の判定がAに。三か月頑張った成果。』
『長女、朝が弱い。今日も七時二十分に叩き起こす。』
『長女の高校、体育祭が九月なので、いまから炎天下の練習が心配。』
「気持ち悪いですか」
私は、正直に答えられなかった。悪意がないものを気持ち悪いと言う言い方を、私は持っていなかった。持っていないので、たぶん顔に出た。出たことは、自分では見えない。
「一つめ、制服」
ドパガキは、写真を三枚並べた。
「モザイクは顔だけだ。制服はそのまま映ってる」
「学校がわかるってこと?」
「わかる。うちのブレザー、県内でここだけだ。襟の切り返しが独特だからな」
私は、自分の襟を見た。三年間着ていて、切り返しがどうなっているかを、いま初めて見た。
「二つめ、時刻と内容」
彼は投稿を三十本並べた。
「『七時二十分に起こした』『バスに乗り遅れた』『十九時に帰ってきた』……一日の時間割が全部書いてある」
「そんなに」
「三年分だ。……で、これを組むと」
彼は、紙に線を引いた。定規を使わないので、線が斜めになった。
「起床七時二十分。家を出るのが七時五十分。バスは八時二分。学校まで二十分」
彼は地図を出して、円を描いた。私が思っていたより、ずっと狭かった。
「三つめ、行事」
彼は投稿の日付を並べた。
「体育祭が九月。文化祭が十一月。旅行が三月。テストが年五回」
「うちの学校ね」
「うちの学校だ。……で、学年もわかる」
彼は指を折った。
「『長女』の受験の話が三年前。入学年度が確定する」
彼はスマホを置いた。
「で、決定打」
彼は一枚の写真を出した。体育館である。娘の顔には、モザイクがかかっていた。
「後ろの生徒には、モザイクがかかってない」
日和田さんの母親は、私たちに会ってくれた。
四十代の、感じのいい人だった。丁寧に話す人で、話しやすかった。話しやすいことが、この件を難しくしていた。
「モザイクはかけてます」
彼女は、最初にそう言った。
「顔も名前も出してません。学校名も書いてません。……そこは気をつけてるんです」
「気をつけてても、割れるんですよ」
ドパガキは、いつも通り敬語を使わなかった。母親は、少し驚いた顔をした。彼は、さっきの紙を差し出した。線の斜めな紙である。
そこには、日和田さんの学校名、学年、通学路、起床時間、下校時間、部活、模試の成績帯、そして先週の予定が書いてあった。
「三十分でここまで出た」
彼は、紙の端を指で押さえた。
「オレは高校生だ。本気の奴なら十分だ」
母親は、紙を長いこと見ていた。指で、上から順になぞっていた。
「……知らなかったです」
「知らねえよ、普通は」
彼は、あっさり言った。
「あんたを責めてんじゃない。仕組みを知らないだけだ」
彼は、椅子の背にもたれた。
「あと、モザイクは顔だけだ。後ろの子は素通しになってる。……あれ、他人の子だぞ」
「……はい」
「で、六年やってるんだよな」
「六年です。小三から」
「六年か」
「なんで始めたんですか」
私が聞くと、母親は少し困った顔をした。
「……なんででしょうね」
「六年続いてるんです。理由があるはずです」
彼女は、しばらく答えなかった。テーブルの木目を、二回なぞった。
「誰も、何も言わないんです」
彼女は、そこで初めてこちらを見た。
「子育てって、誰も褒めないんですよ。当たり前だから。ご飯作っても、送り迎えしても、誰も何も言わない」
彼女は、自分の手を見た。
「投稿すると、二百人が『すごい』って言うんです。三十分で」
私は、その言葉を、どこかで聞いたことがあった。一年前の生徒会室である。佐倉ひかりが、こう言った。
「テストで一位を取っても、誰も、何も言わないの」
「でも動画は違う。上げた瞬間に数字が動くの。三十秒後に、もう百人が見てる」
私は、思わずドパガキを見た。彼は天井を見ていた。
「わかるよ」
彼は、天井を見たままそう言った。
「オレも数字は気持ちいい。誰かが反応するのは気持ちいい。……それは本当だ」
彼は、体を起こした。
「でもさ」
「はい」
「あんたの子の人生、あんたの投稿ネタじゃねえよ」
母親の手が、止まった。
「六年分あるんだよ。あの子が小三のときの成績も、泣いた日も、二年前の体育祭も。……全部、あの子が決めてない」
彼は立ち上がった。
「あんたの六年は、あんたのもんだ。あの子の六年は、あの子のもんだ」
八千人のアカウントは、消えなかった。
代わりに、六年分の投稿から、娘が映るものが全部消された。三日かかったらしい。
残ったのは、料理と、庭の写真と、母親自身の文章だけである。フォロワーは、三か月で四千人になった。
半分だった。
「半分になったって」
私が報告すると、彼はうなずいた。
「だろうな」
「四千人は、あの人の投稿を見てたのね」
「そう」
「残りの四千人は」
彼は肩をすくめた。
「他人の子どもを見てたんだよ」
日和田さんは、それから母親と話すようになった。
うまくいっているのかどうかは知らない。ただ、彼女は生徒会室に、もう来ていない。
来ないのは、いいことだと思っている。ドアの小窓に、人影が立たないのは、いいことである。
彼は自販機の前で止まった。
「うわ」
「今度は」
「猫の飼い主が、猫の一日を全部書いてる」
「猫は困らないでしょう」
「困ってる」
「……猫が?」
「猫、毎回すげえ嫌な顔してる」
彼は十六分動かなかった。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




