誰も撮っていない写真
春休みの最後の日、一枚の写真が回ってきた。
二年C組の集合写真である。終業式の日に撮られたものらしい。問題は、三つあった。一つ、私はそんな写真を撮った覚えがない。
二つ、四十人全員が写っている。三つ、その日、担任は出張でいなかった。
「誰かが撮ったんでしょう」
私は最初、そう言った。
「四十人全員が写ってるんです」
三浦亮太である。彼はうちのクラスではないのに、なぜか一番詳しかった。
「うち、四十人ちょうどなの」
「はい。四十人ちょうどです」
彼は、画面を指で叩いた。
「撮った人がいないんです」
「面白いな」
ドパガキが言った。私は、聞き返した。
「え?」
彼は、答えなかった。もう一度言う気はないらしかった。私は、その言葉をこの男の口から聞いたことがなかった。
一年近く一緒にいて、一度もである。猫が寿司を握る動画を三時間見ているときでさえ、彼はそう言わなかった。
私は、そのことを、その場では深く考えなかった。
「一つめ、影」
彼は写真を拡大した。教室の床が、粗い灰色になった。
「教室で撮ってる。窓が右。西日だ。……で、影が四十本ある」
「四十人だもの」
「そう。四十人ぶんしかない」
彼はスマホを机に置いた。
「三脚があれば、四十一本目が出る。出てない」
「じゃあ手持ち?」
「手持ちなら撮った奴が写らない。……四十人全員写ってんだよ」
「じゃあ、どうやって」
「二つめだ」
「歪み」
彼は、写真の四隅を順に指した。
「レンズってのは、真ん中がまっすぐで、端が伸びる。……で、伸び方の中心が、レンズの正面だ」
「はい」
「この写真、歪みの中心が、画面の右上にある」
「意味があるの?」
「ある。トリミングされてるんだよ。元はもっと横に広かった」
彼は、指で空中に枠を描いた。
「元の写真の中心は、いまの右上のあたりだ。……カメラは、教室の右のほう、しかも低い位置にあった」
「右って、窓の側?」
「窓の側だ」
「窓の外?」
彼は答えなかった。三つめに進んだ。
「三つめ、瞳」
彼は、写真を最大まで拡大した。
一人の生徒の顔が、粗い粒になった。その中に、二つの点がある。
「見ろ。目に、縦長の白い四角が映ってる」
私は、目を凝らした。たしかに、点の中に小さな四角があった。四角というより、明るい傷に近い。粒が粗いので、拡大するほど輪郭は崩れる。崩れても、縦長であることだけは残った。四十人ぶんの目の中に、同じ形の傷が入っている。教室の窓は、縦長である。
「窓だ」
「そう。窓だ。……で、全員の目に、同じ四角が映ってる」
彼は、五人ぶん確認した。私は、そのあいだ一度も瞬きをしなかった気がする。
「四十人全員、窓を見てる。カメラを見てない」
「カメラは窓の向こう?」
「渡り廊下だ。窓の外の。……高さも合う。渡り廊下は教室の床より三十センチ低い」
「で、決定打」
彼は、写真の左端を指した。一人の男子が、両手をポケットに入れて立っていた。
「四十人のうち、手を隠してんの、こいつだけだ」
私は、もう一度全体を見た。たしかに、他の三十九人は手を出していた。
「リモートシャッターだよ。ポケットの中でボタン押してる」
彼は画面を閉じた。
「撮影者は、写真の中にいる」
黒木くんは、写真部だった。
私は彼のことを、名前しか知らなかった。三十九人の中の一人として、一年間、同じ教室にいた。席は三列離れている。日直も、掃除当番も、一度も一緒になっていない。四十人のクラスというのは、一年いても一度も話さない人が何人か残る大きさである。
「先生がいない日にやろうと思ってて」
彼は、淡々と言った。
「撮影者がいない集合写真って、作れるかなと思って」
「なんで」
「なんとなくです」
彼は、本当になんとなくの顔をしていた。
「窓の外にカメラ置いて、みんなに『窓のほう見て』って言って、ポケットで押しました。……歪みが出るんで、あとで切りました」
「みんな、気づかなかったの」
「気づかないです。集合写真だって言ってないんで」
彼は、少し笑った。
「『窓の外に鳥がいる』って言いました」
私は、そこで初めて思い出した。終業式の日、たしかに誰かが「鳥がいる」と言った。
私は窓のほうを見た。鳥はいなかった。西日が眩しくて、目を細めた。細めても、鳥は見えなかった。
三秒くらいで、みんな元に戻った。
私は、その三秒のあいだに撮られていた。一年間、それを知らなかった。知らなかったことより、その三秒を覚えていたことのほうが自分でも意外だった。鳥がいると言われて、窓を見て、いなかった。それだけの三秒である。覚えているようなことではない。それでも、写真を見せられた瞬間に出てきた。
ドパガキは、写真を見ていた。
「なあ」
「はい」
「なんでトリミングしたの」
黒木くんは、少し考えた。
「歪んでたんで」
「それだけ?」
「……あと、渡り廊下に置いたカメラが、写真に映っちゃってたんで」
「へえ」
ドパガキは、そこで初めて彼を見た。
「それ、切らないほうがよかったな」
「え」
「カメラが映ってる写真のほうがいい。……誰も撮ってないのに撮れてるって、そのほうがちゃんと意味わかんねえだろ」
黒木くんは、しばらく黙って、それからうなずいた。
「元データ、あります」
「見せて」
この日、誰も泣かなかった。
誰も犯人ではなく、誰も被害者ではなく、何も解決しなかった。ドパガキは、決め台詞を言わなかった。一撃もなかった。
代わりに、彼は写真を三十分見た。三十分である。この人が一枚の静止画を三十分見るのを、私はそれまで見たことがない。動画なら何時間でも見る。止まっているものは、たいてい三秒で送る。その人が、四十人が同じ方向を見ている一枚を、三十分見ていた。
「面白い」
彼は、二回目にそう言った。
帰り道、私はそれを持ち出した。
「あなた、面白いって言ったわね」
「言ったな」
「初めて聞いた」
「そうか?」
「そうよ。一年近く一緒にいて、初めて」
彼は、少し黙った。
「そんなことねえだろ」
「ないわよ」
「……」
「猫の動画にも言わないじゃない」
彼は、そこで足を止めた。自販機の前だった。彼はスマホを取り出さなかった。
「言わねえよ、あれには」
「なんで」
彼は答えなかった。
長いあいだ答えなかったので、私は聞くのをやめた。答えるつもりが無いのか、答えが無いのかは、私にはわからなかった。四月の風が、まだ少し冷たかった。
三年生が卒業し、二年C組は解散した。四月から、私たちは三年になる。
この一年で、私のノートには二十九件が書いてある。彼は、その二十九件を、全部忘れている。
私は、一度も忘れていない。それが何を意味するのか、私はまだわかっていなかった。




