沈黙の日
三月三日。三年生の、最後の入試の日である。その日、三階の廊下の窓ガラスが一枚割れた。
そして、その日一日、この学校の誰も、何も投稿しなかった。
「監視カメラは」
「三階の廊下にはないです」
三浦亮太は、残念そうに言った。この子は、事件の道具が足りないことを本気で残念がる。
「誰か見てないの」
「三年は受験、二年と一年は午前授業でした。割れたのは午後です」
「じゃあ、外の記録は」
「無いんです」
彼は、鞄からノートを出しかけて、やめた。書くことがなかったのだと思う。
「その日、誰も何も上げてないんです」
「ゼロ?」
ドパガキが顔を上げた。
「ゼロです。校内の裏アカも、部活のも、個人のも。……調べました。四百八十人のうち、一人も」
彼は、珍しく身を起こした。椅子の背が、壁に当たった。
「前後の日は」
「平均で六十件くらいです」
「六十がゼロになったのか」
「はい」
「……六十がゼロか」
彼は、そこで初めて自分から画面を見はじめた。
「一つめ、ゼロという分布」
「六十件が、いきなりゼロになる確率を考える。四百八十人だぞ。天災でも起きねえ」
「誰かが止めたってこと?」
「止めてない。止まったんだよ」
彼はスマホを机に置いた。
「三年の入試最終日だ。……で、この学校、三年と二年の距離が近い。部活で一年一緒にやってる」
「うん」
「誰も言ってねえけど、上げにくかったんだよ、その日。友達が受験してる日に、遊んでる動画は上げらんない」
「四百八十人が、全員?」
「全員だ。誰も決めてないのに」
「二つめ、例外」
彼は指を二本立てた。
「厳密にはゼロじゃない。二件ある」
「あるんですか」
三浦亮太が、驚いた顔をした。
「あんたが数え漏らしただけだ。両方、鍵アカだったからな」
彼は一件目を出した。
「十四時七分。一年D組の、自分の部屋の天井の写真」
「天井?」
「天井だ。文章もない。……で、二件目」
彼は二件目を出した。私は、その画面を見た瞬間に、息を止めた。三階の廊下である。私が毎日通る廊下だった。毎日通っていて、私はその窓を一度も見ていない。見えていたはずのものが、思い出せない。写真の右端に、割れる前の窓が映っている。午後の光が入っていて、床に窓枠の影が伸びていた。四百八十人がゼロだった日の、二件のうちの一件である。
「十五時四十分。校舎の三階の廊下」
「割れた窓の?」
「割れる前だ。まだ無事だ」
「三つめ」
彼は、二件目の投稿者を指した。
「三年の真崎。……受験してる時間に、校舎にいる」
真崎さんは、第二理科室にいた。
三月三日から、彼女は毎日そこにいたらしい。誰も気づいていなかった。三年生は、卒業式まで来なくていいことになっているからである。
理科室は、暖房が入っていなかった。彼女はコートを着たまま、実験台の椅子に座っていた。
私たちを見ても、驚かなかった。
「割ったのは私です」
「……なんで」
「手が当たったんです。ほんとに。振り回したわけじゃないです」
彼女は、少し笑った。
「泣いてて、前が見えてなかったんで」
「受験、行かなかったんだよな」
「行けなかったです」
彼女は、そこを訂正した。
「朝、駅まで行って。改札で、足が止まって。……三時間、そこにいました」
「三時間」
「戻ってきて、校舎入って。誰もいなくて。……三階、歩いてました」
彼女は、自分の手を見た。手の甲に、細い傷が一本あった。
「バカみたいですよね」
ドパガキは、理科室の窓のほうを見ていた。ガラスの向こうに、割れた窓の応急処置の板が見えていた。
「あのさ」
「はい」
「その日、この学校の投稿、ゼロだったんだよ」
真崎さんが、顔を上げた。
「え」
「四百八十人。一件もない。前の日も次の日も六十件あんのに、その日だけゼロだ」
彼は、窓から視線を戻さなかった。
「誰も決めてない。委員会が言ったわけでもない。……受験してる先輩がいるから、上げなかったんだよ、全員が」
真崎さんは、何も言わなかった。
「四百八十人が、その日、あんたらのために黙ってたんだよ」
彼は、そこで初めて彼女のほうを向いた。
「あんたが行ってないことを、誰も知らねえまま」
真崎さんは、しばらく動かなかった。
それから、実験台に伏せて、声を出さずに泣いた。実験台は木で、机とは違う音がした。私は、やっぱり何も言えなかった。
窓ガラスの弁償の話は、苅田先生が引き取った。事故として処理された。事実、事故である。
真崎さんは、卒業式に来た。進路は決まっていなかった。
彼女がそのあとどうなったかを、私はもう少しあとに知ることになる。そのときの私には、まだ何も見えていない。
帰り道、私は一つだけ引っかかっていた。
「一件目の、天井の写真」
「あれは?」
「一年D組の女子だ。三年に知り合いがいない。……その日が入試だってのも知らなかった」
「じゃあ、空気を読まなかったわけじゃないのね」
「読まなかったんじゃなくて、読む空気の中にいなかったんだよ」
彼は、歩きながら続けた。
「で、そいつだけが撮ってた。四百八十人が黙ってる日に、一人だけ天井撮ってた」
「役に立った?」
「立ってない。天井だぞ」
「そうね」
「でも」
彼は、少し考えた。三歩ぶんくらい考えた。
「ゼロじゃなかったっていうのは、けっこうデカいと思う」
彼は自販機の前で止まった。
「うわ」
「今度は」
「猫が天井見てる」
「何もないでしょう」
「何もないのを一分半見てる」
「……何が面白いの」
「わかんね」
彼は十七分動かなかった。私は、その日の四百八十人ぶんのゼロを、もう一度頭の中で数え直した。四百八十のゼロである。誰も相談していない。決めた人もいない。それでも、全員が同じ日に同じことをした。私はそれを、この学校のいいところだと思いたかった。思いたかったが、真崎さんが理科室にいたことを、そのゼロは一件も知らなかった。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




