二時間の空白
一月の終わり。実力テストの二日目である。
三時間目が始まって十分経っても、土場我輝の席は空いていた。
苅田先生が私を呼んだのは、休み時間だった。廊下で、両手に答案の束を抱えたままである。
「鎮目さん。土場、どこ行ったか知らない?」
「知りません」
「一時間目は出てるのよ。二時間目からいない」
先生は本気で困っていた。この学校の教師は、生徒が消えることに慣れていない。私は二週間消えた一年生のことを思い出したが、言わなかった。
「連絡は」
「つかない。既読もつかない」
「探します」
私はそう言ってしまった。言ってから、少し驚いた。頼まれてもいなかった。
三十分あった。
私は、彼がいつも私にやることを、自分でやってみることにした。
一つめ、時刻。
彼は一時間目を受けている。二時間目の開始は九時五十分。その間の休み時間は十分である。
十分で行ける範囲にしかいない。校門を出たなら、それも十分の中の話になる。私は昇降口に降りた。冷たい床の匂いがした。
彼の靴があった。踵の潰れた、汚れたやつである。
校内にいる。
二つめ、通知。
私は、自分が彼に送ったメッセージを見た。既読がついていない。ついていないものが三通、上から順に並んで見えた。
彼はいつも、既読を三十秒以内につける。授業中でもつける。それが二時間ついていない。
つまり、通知を見ていない。
彼のような人間が通知を見ないのは、電池が切れたときか、機内モードのときか、あるいは——画面から目を離していないときだけである。
彼は、この三か月、残量を四十%より下げたことがない。電池ではない。
三つめ、場所。
ここで私は、少し卑怯なことをした。
風紀委員は月に一度、昼休みの校内巡回をする。その記録は、委員会のノートに残っている。
私は、自分の書いた巡回記録を九か月分めくった。図書室で、暖房の下で、指が乾くまでめくった。
そして、土場我輝が立ち止まっていた場所が、そこに全部書いてあることに気づいた。
「二階廊下・自販機前(土場)」
「渡り廊下(土場)」
「体育館裏(土場)」
私は、無意識にそれを書いていた。九か月、一度も自分で読み返していなかった。三か所だった。
決定打。
一月の下旬、実力テストの二日目である。
二階廊下の自販機前は、テスト期間中は教員が動線に使う。渡り廊下は、この寒さで人が通らない代わりに、風が真正面から当たる。
彼は寒いのが嫌いである。九か月の記録で、十二月以降に渡り廊下で止まった日は、一日もない。
残るのは、一か所だった。
体育館裏の、給水塔の陰。
風が来ない代わりに、日も当たらない場所である。地面が湿っていて、コンクリートの継ぎ目に苔が生えていた。
彼は、そこに座っていた。膝を立てて、その上にスマホを置いて、動かなかった。私が近づいても、顔を上げなかった。
「土場くん」
「……ん」
「二時間目、終わったわよ」
彼は、そこで初めて顔を上げた。
「え」
「三時間目も、もう半分」
「……マジで?」
彼は本当に驚いていた。演技ではなかった。演技ができる人ではない。
「二時間、ここにいたの」
「二時間?」
彼は自分のスマホを見た。それから、もう一度私を見た。
「二時間経ってた?」
私は、その隣に立った。
彼の画面が、まだ点いていた。動画が一本、途中で止まっている。そして、私はそこで見てしまった。
再生履歴が、三本しかなかった。
私は、数を数えられる人間である。
彼は動画を三分見ない。二分半も見ない。長くて三分、たいていは四十秒でスワイプする。
一時間で二十本以上。二時間なら、四十本から五十本になるはずである。
三本。
「三本?」
私が言うと、彼はすぐに画面を伏せた。
「別に」
「二時間で三本って」
「別に」
彼は立ち上がって、制服の背中の埃を払った。土がついていた。ずっと同じ姿勢だった証拠である。
「テスト、間に合う?」
「間に合わねえ」
彼はあっさり言った。
「追試だな」
苅田先生には「体調不良で保健室にいた」と伝えた。嘘である。私はそれを訂正しなかった。
三度目だった。もう数えるのをやめようと思った。
「探偵、やってみてどうだった」
帰り道、彼が聞いた。
「疲れた」
「だろ」
「あなた、いつもこんなことしてるの」
「してねえよ。オレは画面しか見てない」
彼は、歩幅を変えずに続けた。
「あんたのは足でやるやつだ。オレのとは違う」
「どっちが偉いの」
「知らね」
彼は自販機の前で止まった。
「あんたのほうが疲れると思う」
私は、三本のことを聞かなかった。
聞かないほうがいい気がした。理由は、そのときの私にはわからなかった。
私が知っていたのは、この男が二時間、日の当たらない場所で、同じ三本を見ていたという事実だけである。
三分以上ひとつのことに集中できない男が、二時間で、三本。計算が合わなかった。私は、それをそのまま持ち帰った。
「うわ」
「今度は何」
「猫が」
彼はそこで、言葉を切った。
「猫が?」
「……いや、いい」
彼はスマホをポケットに入れた。
そして、その日は自販機の前で一分も立ち止まらなかった。
追試は、二月の頭にあった。彼は受けた。点数は聞いていない。
なお彼は、翌週にはこの日のことを、きれいさっぱり忘れていた。
私は忘れなかった。




