教室の温度
一月。三学期が始まって、校舎がまだ冷え切っている時期である。
朝の廊下は、息が白い。四時間目になっても、窓際の席は寒い。それでも昼を過ぎると暖房が効きはじめて、窓が下から白くなっていく。
合唱部の部長が来たのは、その白さが半分まで上がった日だった。
「録音に、六人目がいるんです」
合唱部は、五人しかいない。
県のコンクールに出るために、放課後、三年A組の教室を借りて練習している。その録音を、毎回部内で共有しているのだという。
「先月から、ずっと六人分の声がするんです」
部長の楠さんは、そう言った。
「五人で歌ってるのに、六人聞こえるんです。……最初は反響かと思ったんですけど」
私も聞かせてもらった。
私には、六人には聞こえなかった。五人にも聞こえなかった。ただ、合唱に聞こえた。
「わかんの?」
ドパガキは机に伏せたまま、イヤホンを片方だけ耳に入れた。三十秒で、外した。
「六人いる。アルトが二人だ。片方、ちょっと遅れてる」
彼は起き上がった。
「録音だけじゃ場所は割れねえ。……その教室、動画ある?」
「練習動画なら」
「寄こせ。窓が映ってるやつ」
「一つめ、結露」
彼は動画の窓を拡大した。窓の下半分が、白く曇っている。
「見ろ。曇りの高さ」
「高さ?」
「人がいると、その分だけ空気に水が増える。曇る面積が増えるんだよ」
彼は、指を横に滑らせた。
「この教室、四十人入る。四十人いる教室と三十九人の教室は、窓の曇り方が違う」
「そんなに違うの?」
「一人二人ならわからん。でも五人と六人は違う。全体が少ないからな」
彼は三本の動画を並べた。十二月の練習。一月の練習。そしてもう一本。
「曇りの上端が、三センチ違う」
「三センチ」
「同じ気温、同じ時間、同じ人数だ。なのに三センチ多い」
私は、その三センチを見た。言われれば、たしかにあった。私は毎日その曇りを袖で拭いているのに、高さを見たことは一度もなかった。
「もう一人、息をしてる」
「二つめ、ドア」
彼は別の動画を止めた。
「教室の後ろのドア。閉まってる」
「はい」
「……閉まりきってない。二センチ開いてる」
私は目を凝らした。たしかに、わずかに隙間があった。言われなければ、閉まっていると思う幅である。
「三本全部だ。毎回二センチ」
「風で?」
「毎回同じ幅で開く風はねえよ」
「三つめ、遅れ」
彼は録音に戻して、音量を上げた。
「六人目のアルト、〇.二秒遅れてる。ずっとだ」
「合ってないってこと?」
「合わせようとしてる。でも音が届くのが遅いんだよ。……教室の中じゃない。廊下だ」
「で、決定打」
彼はスマホを机に置いた。
「そのアルト、去年まで部にいた奴だろ」
楠さんが、息を吸った。
「なんで」
「歌えてるからだよ。楽譜も、入りも、切り方も全部合ってる。……練習に出たことがある人間じゃなきゃ無理だ」
二年C組の三田さんは、私と同じクラスだった。
私は、彼女がかつて合唱部だったことを知らなかった。八か月、同じ教室にいて、私はそれに気づいていない。
「去年の秋に辞めました」
「理由は」
「……家のことです。バイトしないといけなくなって、放課後、時間が取れなくて」
「でも、廊下にいるのよね」
彼女は、少し黙った。
「バイト、六時からなんです。練習が四時半から五時半で。……ちょうど、通り道で」
「通り道」
「毎日通ってて。最初は、聞くだけのつもりだったんですけど」
彼女は下を向いた。鞄の持ち手が、握った形にへこんでいた。
「気づいたら、歌ってました」
「ドアを二センチ開けたのは」
私が聞くと、彼女はうなずいた。
「閉まってると、音が悪いんで」
そして、少し早口で付け足した。
「私が入れる隙間じゃないです。ちゃんと二センチにしてます」
ドパガキは、教室の後ろの壁にもたれていた。彼の背中の位置が、ちょうどそのドアの前だった。
「わかるよ。オレも、辞めたもんの近くうろつくのはある。中学の部活、二か月で辞めたけど、三年間ずっと体育館の音は聞いてた」
彼は壁から背中を離した。ドアが、二センチだけ動いた。
「でもさ、あんた」
「はい」
「辞めてねえだろ、それ」
三田さんが、顔を上げた。
「毎日来て、二センチ開けて、歌って、バイト行ってんだよな。三か月」
「……」
「それ、部活だよ」
三田さんは、合唱部に戻らなかった。時間の都合は、言葉では解決しなかったからである。
代わりに、コンクールの録音には六人分の声が入った。楠さんが、そうすると決めた。「廊下パートです」と彼女は言った。
審査員がどう思ったのかは知らない。県大会は通らなかった。
三田さんは、いまも毎日、二センチだけドアを開けている。
帰り道、私は納得がいかないまま歩いていた。
「あれ、ずるくない?」
「なにが」
「六人で出たのに、五人ってことにして」
「五人だろ、実際」
「六人聞こえたじゃない」
「聞こえたな」
彼は肩をすくめた。
「聞こえたのが全部だよ。名簿は関係ねえ」
彼は自販機の前で止まった。
「うわ」
「今度は」
「猫が合唱してる」
「猫は合唱しないでしょう」
「四匹いる」
「……揃ってるの?」
「一匹、〇.二秒遅れてる」
彼は十四分動かなかった。一月の夜は、待つには本当に寒かった。私は缶を両手で持って、それが冷たくなるまで持っていた。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




