声だけが本物
冬休みに入る三日前、生徒会長が渡り廊下で私を捕まえた。
彼女は歩きながら喋る人である。私は半歩後ろをついて歩いた。
「特定班ができてる」
「……何の?」
「配信者。うちの生徒らしいって話になってて」
その配信は、私も名前だけ知っていた。
顔を出さない。名前も出さない。背景は真っ暗で、画面には波形が出ているだけである。ただ喋るだけの配信で、視聴者は二千人を超えていた。
「うちの生徒って、どうしてわかったの」
「チャイムが入ったらしいの。うちのチャイム、県内で二校しか使ってないから」
私はため息をついた。渡り廊下の風は、十二月にはきつい。
「で、特定班が」
「三年の何人かが、本気で探してる。晒す気だと思う」
「止めてほしいって依頼か?」
ドパガキは机に伏せたままだった。
「そう」
「特定班を止めるのは無理だぞ。あいつら止まらねえもん」
「じゃあどうするの」
彼は起き上がって、椅子を少し引いた。
「先に割る。……先に割って、先に守る」
「一つめ、マイク距離」
彼はアーカイブを流した。四十分ある配信の、途中から入った。
「息継ぎの音が入ってる。しかも、かなり近い。マイクから十センチ以内だ」
「近いと何かわかるの?」
「わかる。この人、声が小さい」
私は、意味がわからないという顔をしたのだと思う。彼は言い直した。
「近づけないと拾えないんだよ。喋りは普通に聞こえるだろ? これ、機械で持ち上げてる。だから息継ぎまででかくなる」
彼は音量を下げた。ノイズだけが残った。
「生の声は、たぶん、教室じゃ聞こえないレベルだ」
「二つめ、チャイム」
彼は十七分あたりを再生した。遠くで、たしかに聞き覚えのある音が鳴った。四時間目の終わりの音である。
「これが決め手にされてる。でも、もっと使える」
「もっと?」
「チャイムまでの距離だ。反響の長さでわかる。……この人、スピーカーから遠い。校舎の端だ」
「配信、家からじゃないの?」
「家だよ。家がスピーカーの音が届く距離にあるんだ」
彼は地図を出して、指で円を描いた。
「うちのチャイム、外向きスピーカーが東側にある。あの音量で届くのは、東に四百メートルまで。住宅は三十軒くらいだ」
「三つめ、子音」
彼は再生を戻した。
「この人、カ行の破裂が弱い。喋り慣れてない人間の癖だ。一日に喋る量が少ないと、こうなる」
私は、そのカ行を三回聞いた。三回目で、ようやくわかった気がした。
「で、決定打」
彼は最初の配信まで遡った。三十秒ほど、指が止まらなかった。
「初回、去年の九月八日。うちの二学期の始業式の翌日だ」
三年A組の海老原くんは、教室の隅にいた。
私は彼の声を、思い出せなかった。三年間、同じ校舎にいたはずである。
「聞こえないですよね」
たしかに、聞こえなかった。私は思わず身を乗り出した。それが失礼だと気づいて、少しだけ戻った。
「昔からです。喉が悪いとかじゃなくて。……ただ、出ないんです、教室だと」
「配信では出るの」
「出ます」
彼は少しだけ笑った。
「一人だと出るんです。誰もいないと出るんです。……変ですよね」
「変じゃねえよ」
ドパガキは、机の間を通って窓際まで行って、そこで壁にもたれた。
「オレも、人がいると脳が止まる。文字なら喋れる。……そういう脳の作りがあるんだよ、たぶん」
彼は、外を見なかった。壁を背にして、教室のほうを向いていた。
「特定班が動いてる。知ってるか」
「知ってます」
「やめる気は」
「ないです」
即答だった。教室で聞こえない声で、即答だった。
「……なんで」
私が聞くと、彼は少し考えた。
「三年間、誰も僕の声聞いたことないんです。……二千人が聞いてます」
ドパガキは、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「顔出さないのは逃げじゃねえよ。……声だけ出すって決めたんだろ」
海老原くんが、顔を上げた。
「顔と名前と声のうち、一個だけ出す。それは選択だ。逃げてる奴は、三個とも出さない」
彼はスマホを取り出した。
「で、守り方な。三つある」
「え」
「一つ。チャイムの入る時間に配信するな。当たり前だ。二つ。息継ぎの音を切れ。ノイズゲートってのがある。あれで十センチが二十センチに聞こえる」
彼は、指を三本立てた。
「三つ。特定班に嘘を掴ませろ」
「嘘?」
「一回だけ、うちのじゃないチャイムを入れろ。県外のやつでいい。あいつらは音しか見てねえから、そっちに走る」
彼は肩をすくめた。
「一週間で飽きるぞ、あいつら」
特定班は、二週間で飽きた。
隣の県の高校を三校ほど疑って、それから別の話題に移っていった。何を疑っていたのかも、たぶんもう誰も覚えていない。
海老原くんの配信は続いている。彼は三月に卒業した。卒業式で、彼が答辞を読むことはなかった。
でも、その夜の配信で、彼は卒業式の話を四十分した。聞いていた人は、三千人になっていた。
帰り道、私は思い出したように言った。
「三個とも出さない奴は逃げてる、って」
「言ったな」
「あなた、三個とも出してないでしょう」
彼は、少し黙った。歩幅は変わらなかった。
「オレは何も出してねえよ」
「うん」
「見る側だからな」
彼はそう言って、自販機の前で止まった。
「うわ」
「今度は」
「猫が喋ってる」
「猫は喋らないでしょう」
「喋ってる。字幕ついてる」
「それは人が付けたんでしょう」
「そうだよ。……猫の声が小さいから」
彼は十二分動かなかった。十二月の夜は、待つには寒い。私はそのあいだ、二千人という数を、頭の中で二回数え直した。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




