文化祭の三十六分
吉住くんの四時間は、結局そのまま公開された。
横向きのまま、学校のアカウントではない場所に置かれた。評判は良かった。私はそれで終わったと思っていた。
十二月の頭に、二年B組の遠野さんが生徒会室に来るまでは。
彼女は、軽音部のボーカルだった。背が高くて、声が低くて、話し方がゆっくりな人である。廊下ですれ違うと、いつも二歩ぶん先に気配がある。
「文化祭の日、私、ステージに出なかったんです」
「知ってる。……代役が歌ったのよね」
「はい」
「体調が悪かったって聞いたけど」
彼女は、机の縁を指でなぞった。
「みんなは、そう思ってないです。『ビビって逃げた』って言われてます。一か月半経っても、まだ言われてます」
「記録映像に、私が映ってないんです」
彼女は続けた。
「四時間、全部見ました。一秒も映ってないんです。……いなかったことになってるみたいで」
「四時間分、もう一回寄こせ」
ドパガキは、面倒くさそうに手を出した。
「見たんじゃないの」
「見た。でも、そういう見方はしてない」
彼は二倍速で流しはじめた。三倍速ではなかった。私はそのことに、少しだけ意味があるのだろうと思った。聞かなかったが。
一時間ほどして、彼は再生を止めた。
「一つめ。タイムコード」
「たいむこーど」
「映像に埋まってる時刻だよ。撮った瞬間の時計」
彼は数字を並べた。私にはただの列に見えたが、彼は最後の二つの間に指を置いた。
「十三時二十二分まで、途切れなく続いてる。次のファイルが、十三時五十八分だ」
私は引き算をした。
「三十六分」
「三十六分だ。四時間のうち、そこだけ何もない」
「二つめ、照明」
彼は空白の前後を並べた。同じ体育館なのに、色が違っていた。前がオレンジで、後が白い。
「この切り替えは、軽音部のステージの合図だ。オレンジがバンドの演出用、白が転換用」
彼はスマホを机に置いた。
「消えてる三十六分ってのは、軽音部の出番そのものだよ」
「三つめ、音」
彼は空白の直後を再生した。廊下を歩く音の向こうに、体育館の音が薄く漏れていた。代役の声である。
「で、その前」
彼は空白の直前まで戻した。
廊下の話し声。誰かが笑う声。そして、遠くで、咳き込む音がした。
「咳」
「咳だ。しかも続いてる」
私は、それを三回聞いた。三回とも、同じところで胸が詰まった。同じところ、というのは二分十四秒である。三回とも、そこで息継ぎが聞こえた。
「で、決定打」
ドパガキは、吉住くんを呼んだ。
彼は今日は職員室の前ではなく、廊下の隅に、いつも通りまっすぐ立っていた。
「三十六分、なんで撮ってねえの」
吉住くんは、しばらく黙っていた。窓の外で、部活の掛け声がしていた。
「……止めました」
「なんで」
「ステージ裏に、人がいたんで」
彼は下を向いた。
「泣いてる人がいて。しゃがんで、声出そうとして、出なくて。何回もやってて。……それ、撮るのは違うと思って」
彼は自分の手を見た。
「だから、下ろしました。三十六分間、ずっと」
遠野さんが、廊下の壁にもたれた。
「私です」
彼女は、初めて壁から背中を離した。
「三日前から喉やってて。当日、朝から出なくて。……なんとかなると思ってたんですけど、ならなくて」
「言えばよかったのに」
私はそう言ってしまってから、後悔した。言えないから来たのである。
「言えないですよ」
彼女は笑った。うまく笑えていなかった。
「みんな三か月練習してたんで。私が喉やったせいだって、言えないじゃないですか。だから、体調不良ってことにして」
彼女は、少し止まった。
「そしたら、逃げたことになってました」
ドパガキは、壁にもたれたまま天井を見ていた。蛍光灯が一本、切れかけて点滅していた。
「吉住」
「はい」
「あんた、優しかったな」
吉住くんが、顔を上げた。
「泣いてる人間にカメラ向けなかった。オレは向けると思う。オレじゃなくても、たいていの奴は向ける。四時間撮ってりゃ、そういうもんだ」
彼は壁から背中を離した。
「でもさ。消したんじゃない。最初から撮られてないんだよ、三十六分」
彼は遠野さんのほうを見た。
「消したなら復元できる。撮ってないのは、どうにもならない」
そして、また吉住くんを見た。
「あんたの優しさは正しい。オレは正しいと思う。……でもな」
彼は、そこで初めて吉住くんの目を見た。
「優しさは証拠になんねえよ」
吉住くんは、何も言わなかった。遠野さんも、何も言わなかった。
私はやっぱり何も言えなかった。三人が黙っている廊下で、ドパガキだけがスマホを取り出して、そして、珍しくすぐしまった。
「まあ、三十六分は無い。でも、咳は残ってる」
「え」
「空白の直前、〇.八秒。廊下の音の中に入ってる。ステージ裏から漏れてるやつだ。……これ、聞かせりゃいいだろ」
彼は肩をすくめた。
「証拠は撮られてなくても、その手前に残るんだよ、たいてい」
〇.八秒の咳は、軽音部の部室で再生された。
それが噂を止めたのかどうか、私にはわからない。噂というのは、止まったかどうかを誰も報告してくれない。
ただ、遠野さんは三学期のライブに出た。喉は治っていた。吉住くんはそれを撮った。今度は縦だった。
「証拠は残る、って言い方、優しくないわよね」
帰り道、私が言うと、彼は前を向いたまま答えた。
「優しくしてどうすんだよ」
「泣いてたわよ、あの子」
「泣いてねえよ」
「泣きそうだった」
「泣きそうと泣いてるは違う」
彼は自販機の前で止まって、スマホを取り出した。
「うわ」
「今度は」
「猫が咳してる」
「大丈夫なの、それ」
「三日前に病院行ってる。概要欄に書いてある」
「……概要欄まで読むのね」
「猫のは読む」
彼は十七分動かなかった。十二月の夜は、待つには寒かった。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。




