苅田先生の教室
九月。私は、母校に行った。九月の職員室は、まだ冷房が入っている。卒業して、二年半である。
苅田先生は、いまも三年生の担任をしていた。
「久しぶりね」
放課後の職員室である。三年生の教室は、もう静かだった。加湿器は、まだ出ていなかった。九月の職員室は、窓を開けている。三年前、私はこの部屋で何度も先生の話を聞いた。机の位置も、書類の積み方も変わっていない。変わっていないのに、私はもう生徒ではない。座る椅子を、先生が出してくれるようになっていた。
「土場も来たの」
「来ました」
彼は、廊下に立っていた。中に入らなかった。
私は、乙川の話を、四十分かけて説明した。ノートの三冊目と、三月からの記録を持っていった。日付を読み上げるところが、いちばん長かった。話しながら、私はこの話がどこに着地するのかを自分でもわかっていなかった。わかっていないものを四十分喋る、というのを、私は初めてやった。
先生は、一度も口を挟まなかった。四十分、ペンも持たなかった。
終わってから、彼女はこう言った。
「その子、うちの生徒じゃないのよね」
「違います。……市立の中学の、彼の同級生です」
「そう」
彼女は、椅子を少し回した。そして、しばらく黙った。
「土場」
「なに」
「入ってきなさいよ」
「いい」
「そう」
彼女は、椅子を廊下のほうに回した。
「あなた、三年間、私のクラスにいたわね」
「いた」
「三年間よ。……二年C組と、三年C組。二年間かしら」
「二年だ」
「私、あなたの何を見てたのかしら」
私は、手を止めた。先生は、続けた。
「あなた、授業中、ずっと机の下でスマホを見てたわね」
「見てた」
「私、注意したわね」
「された」
「何回かしら」
「知らね。……二百回くらいじゃねえの」
「そうね」
彼女は、その数を否定しなかった。
「二百回くらい注意したわ」
彼女は、眼鏡を外した。外して、机に置いた。
「で」
彼女は、外した眼鏡を机に置いた。
「一回も、何を見てるか聞かなかったわ」
私は、何も返せなかった。
「先生」
「四十人いるのよ」
「知ってます」
「朝八時半に、四十人の名前を読むのよ。……返事の方角まで聞いてないわ」
彼女は、その眼鏡を掛け直した。
「四年前に、あなたたちがそう言ったのよね」
「言いました」
「その通りよ。……私は、忙しかったわ。いまも忙しいわ」
彼女は、机の上を一度見た。三年生の書類が、四十人分積んであった。
「でも」
彼女は、その山から手を離した。
「言い訳よ」
彼女は、廊下のほうを見た。
「土場」
「なに」
「あなた、乙川くんに言えなかったって言うけど」
「言えなかった」
「私も、あなたに言えなかったのよ」
「何を」
「三年間、あなたが何を見てるのか、一回も聞かなかったわ。……二百回注意して、一回も聞かなかったの」
彼女は、その二つを指で並べた。
「『やめなさい』って二百回言って、『何見てるの』って一回も言わなかったのよ」
彼は、廊下で、動かなかった。職員室のドアの、外側である。ドアは半分開いていて、向こうからこちらの声が聞こえる位置だった。三年間、この人はそこに立っていた。聞こえる位置に立っていたことに、私は三年間気づいていない。三年間、この人はそこに立っていた。中に入ったのを、私は数えるほどしか見ていない。
「聞いてたら、何か変わったかしら」
「変わらねえよ」
「変わらないかしらね」
「変わらねえ。……オレ、答えねえもん」
「そうね」
彼女は、少し笑った。
「あなた、答えないわね」
「答えねえよ」
「でも」
彼女は、その笑いをやめた。
「聞くのは、私の仕事だったのよ」
私は、そのとき、二百という数字を頭の中で割っていた。二年で二百なら、週に二回である。週に二回注意されていた人が、隣のクラスにいた。私はそれを一度も数えていない。数えていれば、二年で二百という数は出せた。二年で二百回である。週に二回、この人は注意されていた。私は、その隣の席にはいなかった。それでも、二年間同じ教室にいた。
私は、三年半前の彼の言葉を思い出した。
四十人分の名前を朝八時半に読んでいる人間が、返事の方角まで聞いているわけがない、と彼は言った。私はそれを構造の説明だと思っていた。返事の方角、という言い方が何を指すのかも、あのときはよくわからないまま書き取った。
私は、それを構造の説明だと思っていた。そして先生も、それを免罪だと思っていなかった。
「先生」
彼は、廊下から言った。
「なに」
「進路調査票、白紙で出した」
「出したわね。……備考欄に、一行書いてあったわ」
彼女は、それを見ずに言った。
「『とりあえず見ます』」
「覚えてんの」
「覚えてるわよ。……十一年やってるけど、あんな備考欄は初めてよ」
彼女は、一度こちらを見た。
「で」
彼女は、一度言葉を切った。
「あなた、二年半、とりあえず見てるのよね」
「見てる」
「進んだの?」
彼は、少し黙った。そして、こう言った。
「進んでない」
「そう」
先生は、椅子を机のほうに戻した。彼女は、それ以上何も言わなかった。
叱らなかった。心配もしなかった。書類の山に、手も伸ばさなかった。三年前、この人が白紙の進路調査票を出したときも、先生は同じだった。よくないけどいい、と言って、それで終わりにした。二年半経って、また同じことをしている。この人のやり方は、たぶん最初から一貫している。一貫しているものを、私は二年半かけてようやく見分けられるようになった。
ただ、こう言った。
「じゃあ、また来なさい」
私たちは、その日はそれで帰った。帰り道、彼は校門を出てからこう言った。
「あの人」
「うん」
「聞いてくれたな、今日」
「聞いてたわね」
「二年遅いけどな」
「そうね」
彼は、一度だけこちらを見た。
「でも」
彼は、少し歩幅を落とした。
「七人目の園芸店より、二年早い」




