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相原景の秋

 十月。相原景から連絡が来た。

 十月の日陰は、上着が要る。要らない日と要る日が交互に来て、私は一週間ぶん間違え続けている。

「相談があります」

 通話の向こうで、換気扇の音がずっとしていた。彼から相談が来るのは、初めてである。四年前、彼は依頼人ですらなかった。依頼人は三浦亮太で、相原景は、二階の窓から私たちを見ていた側だった。


 彼は、高校を卒業して、半年になる。進学していない。就職もしていない。家にいる。

 数学の解説アカウントは、四年半で、フォロワーが六百二十人になっていた。

 一日一問。ヒントだけ。答えは書かない。四年半、一度も休んでいない。四年半というのは、千六百日ちょっとである。休まないというのは、熱を出した日も、正月も、卒業式の日も上げたということである。私は一度、上から下まで送って確かめたことがある。日付が、一日も飛んでいなかった。


「教えるのを、仕事にしたいです」

「家庭教師?」

「オンラインです。……家から出ないでできるんで」


「できるの?」

「たぶん、できます。……一回、やってみたんです。フォロワーの子に」

 彼は、画面の向こうで一度姿勢を直した。

「一時間、通話で」

「どうだった?」

「二時間になりました」


 彼は、少し笑った。

「一時間のつもりが、二時間になって。……終わったあと、僕、めちゃくちゃ疲れてて」

 彼は、言い直した。

「でも」

 彼は、少し声を大きくした。

「次の日も、やりたいと思いました」


 ドパガキは、それを聞いて、少し黙った。

「相原」

「はい」

「あんた、四年前、教室に入れなかったよな」

「入れなかったです」

「三か月、家から出てないよな」

「出てないです」

「いま、家から出ずに、六百人に教えてんだよな」

「はい」


「それ、進歩か?」


 相原景は、その質問に、少し考えた。

「わかんないです。僕、いまも外に出ないんで。……四年前と、そこは変わってないです」

 彼は、一度言葉を切った。

「でも」

 彼は、初めてまっすぐこちらを見た。

「四年前は、誰も僕を見てなかったです」


「いまは、六百人見てる」

「六百二十人です」

 彼は、その内訳を言った。

「毎日、一問だけ上げて。……解いた人が、コメントに答えを書くんです。毎日、四十人くらい書きます」


「四十人か」

「四十人です」

 彼は、少し首をかしげた。

「教室と同じだな」


 四十人。私は、その数字をノートに書いた。書いてから、四年前のページをめくった。四年前、この人が入れなかった教室は、三年C組で、四十人だった。同じ数が二回出てくると、偶然かどうかを考えたくなる。考えても、私にはわからない。

 相原景は、少し止まった。

「同じですね」

 彼は、その数字を口の中で繰り返した。

「入れなかった教室と、同じ人数だ」


「あなた、それ気づいてた?」

「気づいてなかったです。……いま気づきました」

 彼は、口を開けて、一度閉じた。

「四十人です。……僕、四年前、四十人の教室に入れなかったです」

 彼は、その数を口の中でもう一度言った。

「いま、四十人が毎日答えを書いてます」


「オレ、進歩かどうかはわからん」

「はい」

「でも」

 彼は、指で六百のかたちを作らなかった。数字をそのまま言った。

「六百二十人だ」

 彼は、初めて顔を上げた。

「体育館に入るぞ」


 相原景は、それを聞いて、初めて声を出して笑った。私は、この人が声を出して笑うのを、初めて聞いた。

「先輩、それ、鎮目先輩のノートに何回も書いてあります」

「そうか」

「十四回です。……吉住が数えてました」


 私の耳が、そのとき熱くなった。

 十四回も書いていたとは、思っていなかった。私は、書きながら一度も数えていない。数えるのは、いつも彼のほうだった。


「あの」

「はい」

「一個、聞いていいですか」

「どうぞ」

 彼は、少し迷ってから、こう言った。

「乙川さん、見つかりましたか」


 私たちは、答えられなかった。三月から十月まで、七か月やって、答えられない質問である。動画は見つかったが本人は見つかっていない、としか言えない。その二つの違いが相手にどう聞こえたかは、私にはわからなかった。

「見つかってない」

 ドパガキが、画面を伏せた。

「動画は見つかった。……〇世代目だ」

 彼は、その画面をつけなかった。

「本人は、見つかってない」


「探すんですか」

 彼は、少し黙った。たぶん、二十秒くらいである。三月にこの人が「一人ずつ」と言ってから、七か月経っていた。十四人は、終わっている。動画は、見つかった。それでも、この質問には答えが無かった。

 そして、こう言った。

「わからん」


 相原景は、それを聞いて、うなずいた。そして、こう言った。

「僕、四年前、先輩に何も聞かれなかったです。『学校来い』とも、『大丈夫か』とも」

 彼は、一度こちらを見た。

「あれ、良かったです。……だから、僕も聞かないです」


 相原景は、その年の十一月から、オンラインで教えはじめた。生徒は、最初三人だった。半年で、十一人になった。

 一年で、二十四人になった。彼は、いまも外に出ない。

 私は、それを進歩と呼ぶべきかどうか、いまも決めていない。決めなくていいのだと思う。四年前、この人は誰にも見られていなかった。いまは、六百二十人が見ている。それだけが事実である。


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