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なんもしてない

 七月十二日。その日は朝から蒸していて、机の紙が湿っていた。彼は、いつもの言葉を言った。

「オレはなんもしてない」


 私たちは、彼の家にいた。五冊のノートは、まだそこにあった。彼は、こう続けた。

「五年半、なんもしてない。……見てただけだ」

 彼は、指を折りはじめた。

「乙川にも、なんもしてない。九十件も、あんたが持ってきただけだ」

 彼は、二本目を折った。

「相原にも、猫を見せただけだ」

 彼は、その手を開いた。

「オレは、なんもしてない」


 私は、五冊のノートを開いた。そして、こう言った。

「してたわ」


 彼は、顔を上げた。

「え?」

「してた」

 私は、もう一度言った。


「数えたの。……五冊で、二百七十一件よ」

 私は、その紙を出した。前の日に作った紙である。

「そのうち、あなたが関わったのが百三十六件」

「そんなにか」

「そんなによ」


「で」

 私は、その紙をめくった。

「その百三十六件の、依頼人と、犯人と、当事者の名前を、私は全部書いてあるの」

「全部?」

「全部よ。……風紀委員の癖よ。記録しないと落ち着かないの」


 私は、その名前を数えていた。

 前の日に、四時間かけて数えた。四時間、正の字を書いていた。五冊を一件ずつ開いて、名前を拾って、重複を消す。同じ人が二度出てくることがある。三度出てくる人も何人かいた。三度出てくる人も、一人として数えた。四時間、私は自分の字と、三浦亮太の字と、吉住くんの字を交互に読んでいた。


「三百四十二人よ」


 彼は、動かなくなった。三百四十二という数字を、彼は暗算しなかった。この人は、たいていの数字を二秒で扱う。二秒経っても、何も言わなかった。

「三百四十二人が、あなたに会ってるの」

 私は、その紙を彼のほうへ向けた。

「あなたと話して、あなたに何か言われて、それで何かが変わった人が、三百四十二人いるの」


「言い過ぎだろ。……変わってねえ奴も多い」

「そうね」

 私は、その数を半分にして書いた。

「じゃあ、半分にするわ。……百七十一人よ」


「それでも多いわ」

 私は、その数字を丸で囲った。

「体育館に入るのよ。……あなた、いつも言うでしょう」


 彼は、答えなかった。


「あなたは、全員忘れてるわ」

「忘れてる。……六十八件、全部忘れてた」

「三月まではね」

「三月まではだ」


「でも」

 私は、その丸をもう一度なぞった。

「三百四十二人は、覚えてるの」


 私は、いくつか読み上げた。名前のところに、私は毎回、その人が何をしていたかを一行書いている。三年間、それを書かないと落ち着かなかった。

 四年前の板倉さん。毎月十四日に、消したはずの動画を戻していた人。四年前の砂川くん。一年間、既読をつけなかった人。

 三年半前の三田さん。廊下で二センチだけドアを開けて歌っていた人。

 三年前の永田さん。祖父の家の鍵を、落とし物にして置いていった人。

 三年前の南くん。三十件、燃える前に「消したほうがいい」と送っていた人。

 二年前の古谷さん。四十日間、四十通りの訂正を書いた人。一年前の遠山さん。十一日考えて、間に合わなかった人。

 先月の相原景。四年前の一言を、そのまま言えた人。


「全員、覚えてるわ」

 私は、その紙を置いた。

「あなたのことを、覚えてるの。……あなたが忘れてるだけよ」


 彼は、机に手をついた。

 そして、たぶん一分くらい、何も言わなかった。五冊のノートは、机の上に開いたままだった。一冊目の一行目が、私のところから見えていた。三年半前に私が書いた、あの一行である。


「あんた」

「なに」

「三百四十二人、数えたのか」

「数えたわ。……四時間かかったわ」


「なんで数えた」

 私は、少し考えた。そして、こう言った。

「あなたが、なんもしてないって言うからよ」

 私は、五冊を軽く叩いた。

「五年半、あなたはずっとそう言ってきたわ。……私は、それを三年間書き取ってきたの」


「オレはなんもしてない」

 彼は、もう一度言った。いつもなら、私はここで「そうね」と言う。三年半、私はずっとそう言ってきた。


「してたよ」

 私は、その五冊に手を置いた。

「全部」


 彼は、初めて何も言い返さなかった。

「そうね」の代わりに、私はそう言った。

 そして、彼は「なんで笑ってんだよ」とも言わなかった。私は、笑っていなかったからである。


 長い沈黙があった。壁の時計が、三十回くらい鳴った。秒針の音である。この家の時計は、秒針が一秒ごとにはっきり鳴る。ふだんは気づかない音だった。三十回聞こえたということは、三十秒黙っていたということである。数えていたつもりはない。数えてしまうのは、たぶん癖である。

 そして、彼は机から手を離して、こう言った。

「……そうか」


 それだけだった。

 三年半、私はこの人に「そうね」と答えてきた。答えるたびに、この人は「なんで笑ってんだよ」と言った。今日は、両方とも無かった。


 私は、ノートの百二十五件目に、こう書いた。

『七月十二日。「オレはなんもしてない」に、初めて「そうね」と答えなかった。』

『「してたよ。全部」と言った。』

 そして、その下に、こう書いた。

『彼は、「そうか」と言った。』

『三年半で、初めて否定しなかった。』


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