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見る側の八時間

 七月。生徒会室は、窓を開けても風が入らない。彼は、初めてこう言った。

「しんどい」

 七月の、彼の家である。机の上には、まだ六月の紙が残っていた。


「何が」

「見るのが」


 私は、手を止めた。

 三年半、この人が「見るのがしんどい」と言ったのを、聞いたことがなかった。

「いつから」

「先月からだ。……六月十五日からだ」

「日付まで覚えてるのね」

「全部覚えてる」

 彼は、スマホの画面を消した。消したのを、私は初めて見た。

「それがしんどい」


「一日、何本見てるの」

「二十本くらいだ」

「前は?」

「前は、百五十本くらいだ」

「減ってるの?」

「減ってる」

「なんで」

 彼は、その二つの数を並べた。

「全部覚えてるからだ」


「見ると、覚える。……覚えると、消えない」

 彼は、その掛け算をした。

「一日二十本で、月に六百本だ。……三か月で千八百本だ」

 彼は、その数字を紙に書いた。

「全部、頭に残ってる」


 私は、計算をした。

「あなた、一日八時間って言ってたわね」

「言ってた」

「いつから」

「中一からだ」

「五年前?」

「五年半だ」


 私は、電卓を出した。

 八時間 × 三百六十五日 × 五.五年 = 一万六千六十時間


「一万六千時間よ」

 私は、その数字を紙に書いて、彼のほうへ向けた。

「多いな」

 私は、それを日数に直した。六百六十九日である。二十四時間ずっと見続けたとして、二年近い。数字にしてみると、それは一つの生活ではなく、一つの職業に見えた。この人は五年半、無給で二年ぶん働いていることになる。私は、その割り算を三回やり直した。三回とも同じ数が出た。

「六百六十九日ぶんよ。……二年近く、画面を見てるの」


 彼は、それを聞いて、少し黙った。そして、こう言った。

「そうか」

「他には?」

 私は、その紙を見たまま聞いた。

「他に、何かある?」

「ねえよ」

 彼は、その紙を裏返した。

「一万六千時間、それだけだ」


 私は、三年半前のことを思い出した。二百四十万回再生された日下部くんに、彼はこう言った。


「オレ、一日八時間くらい、あんたらが上げたやつを見てる側だ。人生溶けてる自覚もある」

「でも、見る側の八時間より、上げる側の八時間のほうが、ずっと早く人を殺す」

「見る側は、飽きたら閉じれば終わるんだよ。明日また開けばいい。上げる側は、閉じたら終わるんだ」


「覚えてる?」

「覚えてない。……三年半前だ。全部忘れてる」

「じゃあ、読むわ」

 私は、ノートを開いた。一冊目である。表紙が、いちばん傷んでいる。そして、読んだ。


 彼は、それを最後まで聞いた。そして、こう言った。

「言ったな、オレ」


「言ったわ」

「三年半前ね」

「三年半前だ」

「あのとき、正しいと思ってた?」

「思ってた」

「いまは」

 彼は、少し黙った。

「半分間違ってた」


「どこが」

「『見る側は、飽きたら閉じれば終わる』」

 彼は、そのページの一行を指した。

「ここだ」

「閉じられないの?」

「閉じられる。……三月に、三日閉じた。で、戻した」


「じゃあ」

 私は、その先を言えなかった。

「閉じても、終わらねえんだよ」


 私は、それを理解した。

「上げる側は、閉じたら終わる」

「終わる」

 彼は、二つの線を紙に描いた。片方は、途中で切れた。切れたほうは短くて、はっきり終わっている。もう片方は紙の右端まで行って、そこで紙が無くなっただけである。終わっているのではなく、紙が足りない。この人が引く線は定規を使わないので、いつも少し斜めになる。この日の二本も、斜めだった。私には、その二本のどちらが自分の線なのかがわからなかった。上げる側ではない。見る側でもない、と思っていた。思っていただけである。

「数字も、フォロワーも、全部止まる。……終わりがはっきりしてる」

 彼は、もう片方の線を指した。その線は、紙の端まで行っていた。

「見る側は」

 彼は、その線の先を紙の端まで押さえた。

「閉じても、何も終わらない」

 彼は、その線の先を、紙の外まで指でなぞった。

「三日閉じても、四日目に戻れば同じだ。……五年半、終わってない」


「終わりが無いから」

「やめられねえんだよ」


「上げる側は、早く殺される。……三年半前、オレはそう言った」

 彼は、切れているほうの線を指した。

「たぶん、合ってる。……日下部は、二か月で三時間睡眠になった」

 彼は、もう片方に戻った。

「で」

 彼は、その線をもう一度なぞった。

「見る側は、遅い」


「遅いだけ?」

 彼は、初めて私を見た。そして、こう言った。

「五年半かかったな」


 私は、そのあと何も言えなかった。五年半である。私が彼を知っているのは、そのうちの三年半でしかない。残りの二年を、私は一日も見ていない。


「日下部は、三年で戻った」

「戻ったわね」

「いま、八時間寝てる。……戻ったな」

 彼は、その紙をもう一度見た。

「オレは」

 彼は、その紙を裏返した。裏には、何も書いていなかった。

「戻り方がわからん」


 私は、ノートの百二十四件目に、こう書いた。

『七月。土場我輝、「見るのがしんどい」と初めて言う。』

『一日八時間、五年半。一万六千時間。』

 そして、その下に、こう書いた。

『三年半前、彼は「見る側の八時間より、上げる側の八時間のほうが早く人を殺す」と言った。』

『それは、たぶん正しい。』

『遅いだけである。』

 書いてから、私は自分の一日を数えた。私も、たぶん三時間は見ている。一年で千時間である。四年で四千時間になる。四千時間というのは、この人の四分の一でしかない。四分の一だから安全だ、という言い方は、たぶんできない。私は、自分の数字を書いたページを、その日は閉じずに机に置いておいた。


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