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一撃を返される

 六月二十日。

 相原景が、瀬々良木駅に来た。六月二十日の駅前は、日向に立つともう汗が出る。

 彼が自分から誰かに会いに来るのを、私は初めて見た。四年前、この人は玄関の内側にいた。二年前、門の外の椅子に座った。今日は、電車に乗ってこちらへ来ている。一段ずつ動いているのが、並べてみると私にも見えた。


 彼は、三月に高校を卒業した。進学していない。就職もしていない。家にいる。

 数学の解説アカウントは、続いている。フォロワーは六百人になっていた。

 一日一問。ヒントだけ。答えは書かない。四年目である。四年で六百人というのは、一日に〇.四人ずつ増えた計算になる。三年前、私はこの数字を小さいと思った。いまは、そうは思わない。一日〇.四人を四年続けられる人のほうが、たぶん少ない。その〇.四人が毎日どこから来るのかは、私にはわからない。


「先輩」

 彼は、ドパガキを、いつもそう呼ぶ。

「うん」

「聞いていいですか」


 私たちは、駅前の日陰にいた。六月の日陰である。彼は、いつも通りしゃがんでいた。相原景は、立っていた。しゃがまなかった。


「四年前です。僕、二週間、学校に来てなくて。……先輩、うちの前に来ましたよね」

「来た」

「二十分、座ってましたよね」

「座ってた」


「あのとき」

 相原景は、その場所を指すように少し手を上げた。

「先輩、僕に動画を見せましたよね」


「見せた」

「猫が寿司握ってんだけど、見る?」

 相原景は、その一言を、正確に言った。四年前の、一言である。


「覚えてるのね」

「覚えてます」

「一言一句?」

「一言一句です」

 彼は、鞄の紐を持ち直した。

「あれ、僕の人生で、たぶん一番重要な一言なんで」


 私は、何も返せなかった。


「先輩」

「なに」

「あれ、乙川さんの動画ですよね」


 ドパガキが、顔を上げた。

「知ってんの」

「知りました。吉住から聞きました。吉住は、鎮目先輩のノートを読んでるんで」

 彼は、一度こちらを見た。

「六冊目に、書いてありました」


 私は、自分のノートのことを思い出した。

 私は、書いた。誰にも見せないつもりで書いて、卒業のときに三浦亮太に渡した。三浦が二年書いて、吉住くんに渡した。吉住くんが書いて、相原景が読んだ。六冊目に書いた一行が、四年前の門の外に返っている。

 回るとは思っていなかった。


「そうだ」

 ドパガキは、日陰から動かなかった。

「乙川のだ。……四年前は、知らなかった。先週、知った」


 相原景は、少し黙った。そして、こう言った。

「先輩」

「なに」

「面白いって言えなかった人の動画を、僕に見せたんですね」


 ドパガキは、答えなかった。

「僕、あれ見て、外に出ました。……四年前です」

 彼は、その日を指で数えなかった。数えなくても出てきた。

「あの日、門から出て、ブロックに座って、二人で見ました。……僕、あのときのこと、全部覚えてます」

 彼は、少し笑った。

「蝉がうるさかったです」


「うるさかったな」

 ドパガキは、日陰の中でそう答えた。彼は、覚えていた。三年半、忘れていたはずである。

 だが、覚えていた。


「先輩」

「なに」

「僕、あれから四年です。……学校、行ったり行かなかったりで、卒業して、いま何もしてないです」

 彼は、一度足元を見た。靴の先が、日向に出ていた。

「でも、四年前より、ましです。……四年前は、外に出なかったです。いまは、ここにいます」


「そうだな」

「で」

 相原景は、一度言葉を切った。

「僕、ずっと考えてたんですけど」


 そして、こう言った。

「あの人にも、見せればよかったんじゃないですか」


 ドパガキは、動かなかった。私も、動けなかった。


「乙川さんにも」

 彼は、その言い方を変えずに繰り返した。

「見せればよかったんじゃないですか。……あの人の動画を、あの人に」


「意味わかんねえだろ、それ」

 声が、少しかすれていた。

「わかんないです」

 相原景は、シャツの襟を一度直した。

「でも。……僕にはわかりました」


 彼は、初めて少しだけ笑った。私が知る限り、二度目である。一度目は、四年前、門の外に出てきた日だった。


「先輩は、四年前、僕に何も言わなかったです。『学校来い』とも、『大丈夫か』とも、言わなかったです」

 彼は、言い直した。

「猫を見せただけです。……それで、出ました」


「オレはなんもしてない」

 ドパガキは、しゃがんだまま言った。いつもの言葉である。そして、いつもと少し違って聞こえた。


「してました」

 相原景が、初めて日陰に半歩入った。

「四年前、先輩は、僕に見せました。……先輩ができなかったことを、僕にやったんです」

 彼は、その半歩を戻さなかった。

「僕は、それで外に出ました」


 彼は、深く頭を下げた。角度が深すぎて、私は一瞬どうすればいいかわからなかった。四年前、この人は玄関の内側から出てこなかった。出てきたときも、目を合わせなかった。その人が、駅前の日陰の外で、頭を下げている。下げているあいだ、誰も何も言わなかった。

 そして、こう言った。

「ありがとうございました」


 そして、帰っていった。十五分である。

 彼は、それだけ言うために、隣の駅から来ていた。電車で二十分である。往復で四十分かけて、十五分喋って帰った。何もしていないと本人が言う人が、その日、そのために家を出ている。四年前、二週間出られなかった人である。私は、その往復の四十分のほうを、しばらく考えていた。


 ドパガキは、そのあと、一時間動かなかった。

 私は、隣に立っていた。日陰が、そのあいだに動いた。彼は、日向に入っても動かなかった。六月の日向である。しゃがんだ背中に、直接日が当たっていた。暑いはずだった。三年間、この人は必ず影のあるほうに寄ってきた。その日、影のほうが先に逃げて、この人は動かなかった。


 一時間経って、彼はこう言った。

「あいつ」

「うん」

「四年前より、喋るようになったな」

「そうね」

 私は、そのページを思い出した。四年前の私の字である。

「四年前、三十分で四回しか喋らなかったわ」

「そうだったか」

「そうよ。……今日は、十五分で、たぶん三十回喋ったわ」


 彼は、それを聞いて、少し黙った。そして、こう言った。

「やられたな」

「何が」

 彼は、初めて立ち上がった。

「一撃、返された」


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