猫が寿司を握る動画
知らない駅のホームで、私たちは三十分いた。
六月の夕方だった。屋根の外はまだ明るくて、屋根の下だけが先に暗い。風が線路のほうから来て、少し冷たい。ホームは片側に一本しかなく、向かいに線路が無い。改札は無人で、駅員のいた窓口には板が渡してあった。
電車は、二本行った。二本とも、誰も降りなかった。
「なんて打ったの」
「覚えてない」
「覚えてないの?」
彼は、少し黙った。
「覚えてる」
「言って」
彼は、言わなかった。
私は、そのあいだに、頭の中で全部を並べた。ノートは出さなかった。出さなくても、全部出てきた。
一つめ。五年前の五月十一日、二十一時四分十二秒。彼は、乙川の投稿にいいねを押した。
そして、二十一時四分二十三秒に、取り消した。
十一秒である。十一秒がどれくらいかは、数えてみるまで私にはわからなかった。そして、忘れた。
二つめ。乙川は、それを見た。二十一時に投稿して、四分後である。画面を開いていた。いいねが、一つついた。
そして、十一秒後に、消えた。
三つめ。
その日から三年間、乙川のアカウントのいいねは、ゼロだった。正確には、一件あった。十一秒だけである。
四つめ。
四年前の十月、牧田さんが「昨日のやつ、面白かった」と言った。乙川は「あ」とだけ言って、逃げた。
三日、投稿が止まった。四日目から、他人のものを貼るようになった。
五つめ。その「他人のもの」は、彼自身が撮ったものだった。彼は、それを「作っていない」と思っていた。
歩いていて、猫がいて、押しただけだから。
六つめ。四万人が、それを見た。彼が作ったと思っていたものは、誰も見なかった。
七つめ。三年前の一月十九日。彼は、両方消した。そして、河内さんにこう送った。
『おれ、なんも作ってなかったわ』
「土場くん」
「なに」
「あなた、三年間、六世代目の動画を毎日見てたわね」
「見てた」
「面白いと思ってないって言ったわね」
「言った」
私は、ベンチの端を握った。
「嘘でしょう」
彼は、初めてこちらを見た。
「嘘だ」
「面白かったの?」
彼は、少し黙った。ベンチの向こうで、風が一度通った。そして、こう言った。
「三年間、毎日、面白いと思ってた」
私の喉が、詰まった。
泣かなかった。私は、そういうふうにはできていない。三年間、私はこの人の隣で、人が泣くのを何度も見てきた。見てきて、一度も一緒に泣かなかった。書く側は泣かない、というのが、たぶんどこかで自分に課した決まりだった。決まりだと気づいたのは、その日である。
「一回も言ってないのね」
「一回も言ってない」
彼は、三つを順に数えた。
「押してもねえ。コメントもしてねえ。フォローもしてねえ」
彼は、その手を下ろした。
「三年間、毎日、自分で開きに行って、見て、閉じてた」
彼は、その手のひらを一度見た。
「面白いと思いながら」
「なんで言わなかったの」
彼は、たぶん一分黙っていた。屋根の下の照明が、そのあいだに点いた。そして、こう言った。
「言ったら、変わるからだ」
「変わる?」
「牧田が一言言ったら、三日止まった。……あいつは、一言で変わる」
彼は、言い直した。
「オレが言ったら、変わる。……良くなるかもしれん。悪くなるかもしれん」
彼は、足元のタイルを見ていた。
「どっちかわからんから、言わなかった」
「それは」
私は言いかけた。
「わかってる」
彼は、即答した。
「言い訳だ。……怖かっただけだ」
「何が」
彼は、初めてはっきりと言った。
「見てるのを、知られたくなかった」
私は、三年前の古市奏太のことを思い出した。四十秒で消した投稿の話である。彼は、あのときこう言った。
「三十八人中、四人が、深夜一時四十七分に、四十秒以内に見た」
「通知オンだよ」
「あんたが誰にも見られてないと思ってたその四十秒に、四人が起きて、画面見てたんだよ」
「あなた、古市くんにあれを言ったとき」
「うん」
「自分のことを言ってたのね」
彼は、答えなかった。そして、しばらくして、こう言った。
「四人はな」
「うん」
「通知オンにしてたから、四十秒で見れたんだよ」
彼は、自分のスマホに一度触れた。触れただけだった。
「オレは、通知オフだ。……フォローもしてない」
彼は、その手を離した。
「それでも、毎日見てた」
「どっちが重いのかしら」
「知らね」
彼は、一度こちらを見た。
「でも。……四十秒に見た四人のほうが、届いてる」
私は、最後の一つを言った。三年半前の、伊丹まゆの十五秒である。
「あなた、佐倉さんに言ったわね」
私は、その一行を、ノートを見ずに言えた。
「他人の十五秒で稼いだ数字、あれ、あんたの数字じゃねえよ」
「言った」
「あれ、乙川くんに返るわね。……あの人、他人の十七秒で数字を稼いでたんだから」
彼は、首を振った。
「違う」
「え?」
「逆だ」
彼は、ホームのベンチに座った。三年見てきて、この人が外のベンチに座るのを、私は初めて見た。しゃがむか、立つか、ブロックの縁に腰を下ろすかである。背もたれのあるものに座るのは、部屋の中だけだった。ベンチの塗装が剥げていて、座ると乾いた音がした。彼は、背中をつけなかった。
そして、こう言った。
「あの十七秒は、あいつのだ」
彼は、三つを順に言った。
「あいつが撮った。あいつのカメラだ。あいつが押した」
彼は、上りの電車が通り過ぎるのを待った。
「四万人は、あいつの数字だ」
彼は、顔を上げた。
「でも、あいつは」
彼は、ベンチから立ち上がらずに続けた。
「自分の数字を、他人のだと思ってた」
私は、その言葉を、いまも覚えている。
三年間、私が書いてきた百二十件の中で、一番重い一言だった。自分の数字を、他人のだと思っていた。四万というのはその人のものであって、その人だけがそれを受け取らなかった。受け取らなかった理由が、作っていないから、である。作るという言葉の決め方一つで、四万が消えた。
「作ったものだけが自分のだと思ってたのね」
「そうだ。……歩いてて撮れたもんは、自分のじゃないと思ってた」
彼は、一度言葉を切った。
「で、それが一番よかった」
彼は、立ち上がった。
「三年間」
「うん」
「オレは、あいつが撮ったもんを、毎日見てた。……面白いと思ってた」
彼は、ホームの端まで二歩だけ歩いた。
「一回も、言ってねえ」
「なんて打ったの」
私は、もう一度聞いた。三年前の一月十八日、彼が打って、消した一言である。
彼は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「面白い」
三文字だった。私はその三文字を、口の中で一度だけ繰り返した。繰り返しても、重さがわからなかった。
「三文字よ」
「三文字だ」
「打って、消したの」
「打って、消した」
「何秒?」
彼は、少し黙った。
「覚えてない」
彼は、一度だけ、こちらを見た。
「たぶん。……十一秒くらいだ」




