三年間の勘違い
帰りの電車は、四十分だった。
六月の夕方の下りは、冷房が効きすぎている。私は上着を膝に置いていた。彼は着ていない。四十分で、私は一度だけ袖を通した。
彼は、その四十分、一度もスマホを見なかった。
「整理する」
窓の外を見たままである。
「うん」
「一つめ」
彼は、指を折りはじめた。三年間、この人が手がかりを数えるのを、私は百回以上見ている。数えているのが自分のことなのは、初めてだった。
「猫の動画は、乙川が撮った」
「うん」
「二つめ。あいつは、それを『作ってない』と思ってた」
「うん」
「三つめ。四万人がそれを見た」
「うん」
「四つめ。あいつの作ったもんは、誰も見なかった」
「五つめ」
彼は、五本目を折った。
「あいつは、四万人のほうを毎日リポストして、十四人のほうに連れてこようとした。……一年やった」
彼は、窓のほうを向いたままだった。
「一人も来なかった」
「六つめ」
彼は、反対の手を出した。
「三年前の一月十九日、両方消した。……で、転載の浅いのを、全部消して回った」
彼は、七本目を折った。
「七つめ。……いま、探してる。三十六回、月に一度、同じ一行だ」
「整理できたわね」
「できてない」
「え?」
彼は、その七本を見た。七本のうち、六本までは私にも並べられる。三年間、私はそれをノートに書いてきた。七本目だけが、書いていないほうの話である。書いていないものは、並べても私には形が見えなかった。
「一個も、オレの話が入ってない」
私は、彼のほうを見た。
「オレは、三年間、猫の動画を探してた」
「うん」
「その猫は、乙川が撮ったやつだった」
「うん」
「じゃあ」
彼は、その手を下ろした。
「オレは三年間、あいつの作ったもんを探してたのか」
私は、少し考えた。二駅ぶん考えた。そして、こう言った。
「違うと思う」
「なんで」
「あなたが探してたのは、猫の動画よ。……乙川くんが撮ったって、知らなかったでしょう」
「知らなかった。……今日まで知らなかった」
「じゃあ」
私は、言い切った。
「あなたは、乙川くんを探してたんじゃないわ」
彼は、初めて窓から目を離した。
「そうだな」
彼は、また窓を見た。
「猫を探してた。……乙川は、別の話だ。別々に、三年間やってた」
「じゃあ」
私は、膝の上の上着を、少し握った。
「なんで猫を探してたの」
彼は、答えなかった。
電車が、二駅進んだ。二駅とも、誰も乗ってこなかった。夕方の下りである。ドアが開いて、しばらくして閉まる。開いているあいだ、ホームの音が入ってくる。この人は、そのどちらでも姿勢を変えなかった。窓の外を見ている人と、その隣に座っている人が、二駅ぶん黙っていた。
「三年間、毎日見てたのよね」
「見てた」
「六世代目のやつを」
「六世代目のやつを」
「面白かった?」
彼は、少し止まった。そして、こう言った。
「三年前に、あんたに言った」
「なんて」
「『あの動画、面白いと思ってねえんだよ』」
私は、覚えていた。
三年前の十一月である。四百三十件を三日かけて見て、本家が無いことを確認した日だった。
彼は、そのときもこう言った。
「オレさ、あの動画、面白いと思ってねえんだよ」
私は、その意味がわからずに聞いた。
「じゃあ、なんで見てるの」
彼は、答えなかった。
「三年前、答えなかったわね」
「答えなかった」
「いま、答えられる?」
彼は、また窓の外を見た。田んぼが、二枚流れた。そして、こう言った。
「三年前の一月十八日」
「うん」
「あいつが消える、前の日だ」
「うん」
「あの日、あいつの投稿が、いつもと違った」
彼は、その二つの時刻を言った。
「二十一時じゃなくて、十七時だった。……四時間早い」
「それは、聞いたわ。……フォロワーを書き写した日ね」
「そうだ」
彼は、一度言葉を切った。
「で」
彼は、窓の外から目を離さなかった。
「それだけじゃない」
電車が、瀬々良木に着いた。彼は、降りなかった。私も、降りなかった。一駅、乗り過ごした。
「オレ、あの日」
「うん」
「なんか言おうと思った」
冷房のせいではなく、私の腕が冷たくなった。
「言ったの?」
「言ってない」
「打ったの?」
「打った」
彼は、初めて自分のスマホを見た。画面は、消えたままだった。
「送ってない。……打って、消した」
私は、何も言えなかった。
三年前の一月十八日である。私は、その日、期末考査の勉強をしていた。彼が何かを打って消したことを、私は三年間知らなかった。知らないまま、その翌日から、この人の隣にいた。
電車が、次の駅に着いた。私たちは、そこで降りた。知らない駅である。
ホームに、誰もいなかった。屋根の下に、ベンチが二つあった。
私は、その駅の名前を知らない。四十分かけて瀬々良木に帰るはずが、一駅ぶん遠くなっていた。帰りが十分遅くなる。それだけのことだった。
「三年間」
彼は、ベンチのほうを見た。座らなかった。
「うん」
「オレが探してたのは」
彼は、そのスマホをポケットに入れた。
「猫じゃない」
彼は、そのポケットに手を入れたままにした。
「送らなかった一言だ」




