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もらったので

 六月七日。梅雨に入る前で、まだ蒸してはいない。私たちは、隣の市に行った。

 駅から北に二キロ。三年前、彼が写真一枚から割り出した場所である。あのときは、窓の外に写った電柱の高さと、屋根の勾配と、遠くの稜線の形だけで、この一帯まで絞った。私は絞られた地図を横で見ていて、まさか本当に来る日が来るとは思っていなかった。三年前の私は、これを推理の話だと思っていた。


 寺沢さんという人だった。

 高校二年生である。四年前は、中学一年だった。

 私たちが訪ねると、彼女は玄関先で、ずいぶん長いあいだ黙っていた。驚いているのとも、警戒しているのとも違った。何を言えばいいのかを、本当に知らない顔だった。四年間、毎日上げて、誰からも何も来なかった人である。来ないことに慣れた人のところに、二人来た。

 そして、こう言った。

「初めて、人が来ました」


「四年間、毎日上げてますよね」

「上げてます。二千件です」

 彼女は、湯呑みに手を伸ばして、触らずに戻した。

「窓の外だけです」


「なんで、毎日なんですか」

 彼女は、少し考えた。

「教わったんで」

「誰に」

「乙川さん」


 私の隣で、彼が動いた。玄関先で、半歩前に出た。


「知ってるんですか」

「知ってます。……四年前に、一回だけ会いました」

「一回だけ?」

「一回だけです。……三十分くらいです」


「どこで」

「商店街です」

「瀬々良木の?」

「はい」

 彼女は、玄関のドアに手をかけた。開けたままにするための手だった。

「あそこ、猫がいたんです」


 私は、息を止めた。猫、とこの人は言った。三年間、私はその猫を六世代目の画面でしか見ていない。目の前の人は、その猫を毎日、直接見ていた。画面越しに三年見ても、私にはその猫の毛の色までは見えなかった。

「猫」

「野良です。魚屋の裏に、いつもいました」

 彼女は、少し笑った。

「私、そのころ、あの商店街を毎日通ってたんです。塾が近くて。……で、いつも猫を見てました」


「乙川くんも?」

「見てました」

「二人で?」

「二人じゃないです」

 彼女は、言い直した。

「別々に、見てました」

 彼女は、指を二本立てて、離した。

「一年くらい、毎日、同じ場所にいました。……一回も、喋らなかったです」


 私は、三年前の除夜の鐘のことを思い出した。三年間隣に並んで鐘を撞いていて、一度も互いの名前を知らなかった二人の話である。あのとき私は、そういうこともあるのだと思って書いた。同じことが、ここにもあった。一年間、毎日同じ場所で同じ猫を見ていて、一度も喋らない。私は、その二つを同じノートに書いている。書いた本人が、二つが同じ形をしていることに気づいていなかった。


「猫が、いなくなったんです」

 彼女は、その二本の指を下ろした。

「四年前の、春です。……三日、いなくて。四日目も、いなくて」

 彼女は、袖の先を握った。

「一週間経って、私、泣いてました。魚屋の裏で」


「そのときに」

「はい」

 彼女は、その場所を指すように少し手を動かした。

「乙川さんが、来ました」

「なんて」

 彼女は、笑った。笑ってから、下を向いた。

「『これ、あの猫』って。……それだけです」


「動画を?」

「動画です。十七秒の」

 彼女は、自分のスマホを見た。開かなかった。

「その場で、見せてくれました。……で、『いる?』って」

 彼女は、画面を伏せた。

「いるって言ったら、送ってくれました」


「それが、あなたの一件目ですね」

「そうです」

 彼女は、初めてスマホを開いた。一番下まで送るのに、しばらくかかった。

「『もらったので、置いときます』。……それが、私の一件目です」


「三十分、何を話したんですか」

 彼女は、少し考えた。

「ほとんど喋らなかったです。向こうも、私も」

 彼女は、また画面を伏せた。

「でも」

 彼女は、顔を上げた。

「帰り際に、一個だけ言われました」


「なんて」

 彼女は、そのまま言った。

「『毎日、同じ時間に上げてみ』」


 私は、そのアカウントの投稿時刻を思い出した。

 二十二時四十七分。

 四年間、一分も外れていない。私は三年間、その時刻を半端な数字だと思ってきた。二十二時でも二十三時でもない、中途半端な時刻である。何かの区切りではない。ただ、誰かが動画をもらった時刻だった。区切りでない時刻を四年間守り続けるほうが、区切りのいい時刻を守るより、たぶん難しい。


「なんで、二十二時四十七分なんですか」

 彼女は、少し照れた。

「その日、動画をもらった時刻です」

「え?」

「四年前の四月二十日、二十二時四十七分です」

 彼女は、その日付を、一度も詰まらずに言った。年も、月も、日も、分まで出てくる。私はノートを持っている側で、それでも去年の同じ日に何があったかは、書かないと出てこない。書かずに出てくるということが、私にはうまくわからなかった。

「塾の帰りが遅くて。……その時間でした」


「毎日、同じ時間に上げてみ、って言われて」

 私は、一度言葉を切った。

「四年、やってるんですか」

「やってます」

「なんで」

 彼女は、初めて少し困った顔をした。

「理由、聞かなかったんです」

 彼女は、その画面をもう一度見た。

「なんで毎日なのか、なんで同じ時間なのか。……聞かなかったです」

 彼女は、その画面を閉じた。

「で、いま、聞ける人がいないです」


 ドパガキが、初めて口を開いた。

「続くからだ」

 彼女が、顔を上げた。

「え?」

「毎日、同じ時間だと、続く。……決めてないと、やめる」

 彼は、言い直した。

「たぶん、そういう意味だ」


 彼女は、それを聞いて、少し黙った。

「そうですか」

「たぶんな。……オレも聞いてねえから、わからん」


「あの」

「はい」

「乙川さん、いま何してますか」


 私たちは、答えられなかった。

「わからないです。……三年前に、全部消して、いなくなりました」

 彼女は、それを聞いて、しばらく玄関に立っていた。ドアにかけた手を、離さなかった。そして、こう言った。

「そうですか」

 彼女は、その手をようやく離した。

「私、四年間、あの人が見てると思ってました」


 私たちは、それで帰った。玄関を出て、二キロ歩いて駅まで戻った。歩いているあいだ、彼は一度も画面を見なかった。四年間、毎日二十二時四十七分に窓の外を撮っていた人がいて、見られていると思っていた相手は三年前からいない。それでも、明日も二十二時四十七分になる。私は、その時刻のことを歩きながらずっと考えていた。


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