三年前の猫
十一月の教室は、朝だけ寒い。
昼になると暖房が効きすぎて、窓が曇る。私は毎日、四時間目にその曇りを袖で拭いている。誰かがやらないと、誰もやらない。
その週、依頼は一件も来なかった。それなのに、ドパガキは調べはじめた。私が知る限り、それは初めてのことだった。
「四百三十件」
放課後の教室で、彼は誰にも聞かせるつもりのない言い方をした。窓際の席で、机に肘をついて、画面だけを見ていた。
「何が」
「猫が寿司握ってる動画」
私は鞄を置いた。置いてから、置く必要がなかったことに気づいた。
「あなたがいつも見てるやつ?」
「そう。転載が。この一週間で」
彼は画面をこちらに向けた。同じサムネイルが、びっしりと並んでいる。アカウント名はどれも意味のない英数字だった。指でスクロールしても、終わりが見えなかった。
「先週まで、月に二、三件だった」
「……誰かが流行らせてるの?」
「三年前の動画だぞ。いまさら流行るわけねえだろ」
彼はそう言って、それから小さく付け足した。
「調べる」
「依頼、来てないけど」
「来てない」
彼はもう画面に戻っていた。私は、その二文字をどこにも書き留められないまま、教室を出た。
三日かかった。彼が三日、同じことを続けたのを、私は初めて見た。
一日目、彼は放課後に二時間残った。二日目は、昼休みも机から動かなかった。購買のパンを買いに行った三浦亮太が、頼まれてもいないのに彼のぶんも買ってきて、机の端に置いて、そのまま帰った。パンは、翌朝もそこにあった。
三日目、私は窓が曇っていることに気づかなかった。四時間目に袖で拭くのが私の役目なのに、拭かないまま一日が終わった。誰も何も言わなかった。誰も気づいていなかったのだと思う。
四日目の放課後、彼は説明を始めた。
「一つめ、世代」
彼は画像を五枚並べた。左から右へ、じわじわと汚くなっていく。私にはただの粗い猫にしか見えなかったが、彼は当然のように指を置いた。
「転載は、上げ直すたびに画質が落ちる。圧縮が重なるからな。落ち方には段階がある。これが一世代目、これが二世代目。……四百三十件のほとんどは、六世代目から八世代目だ」
「六回コピーされてるってこと?」
「そう。誰かがコピーして、それをコピーして、それをコピーしてる」
彼はスクロールを止めた。
「元を持ってる奴は、この中に一人もいない」
「二つめ、間隔」彼は投稿時刻を並べた。数字の列が縦に伸びていく。「時刻順に並べると、十七分ぶんずつ空いてる。ずっとだ。一日八十四件、きっちり」
「人間じゃないのね」
「人間は飯食うし寝る。……botだよ」
「三つめ、タグ」
彼はハッシュタグの一覧を出した。読めない言語が混じっていた。
「本文が全部同じ構造だ。単語だけ入れ替えてる。で、末尾に必ず同じ短縮リンクが入る」
「広告?」
「踏ませたいだけだ。猫はなんでもいい」
彼は画面を閉じた。教室の蛍光灯が、閉じた画面に映り込んだ。
「猫が伸びるから猫にしてる。三年前のを引っ張り出してんのは、権利者がもういないからだ。消えたアカウントの動画には、文句を言う奴がいない」
「……安全なのね、盗むのに」
「安全なんだよ」
窓の外は、もう暗くなっていた。十一月の四時半は、そういう時刻である。
「じゃあ、事件じゃないのね」
「事件じゃない」
「犯人は」
「たぶん外国のどっかにいる。オレには手が届かない」
「被害者は?」
彼は答えなかった。長い間があった。廊下で誰かが走っていく音がして、それも遠くなった。
「いねえよ。上げた奴は三年前に消えてる。困ってる奴は一人もいない」
私は、そこで気づくべきだった。
三日かけて、四百三十件を全部見て、彼が探していたものは、犯人ではなかったのである。
「一世代目が無いのね」
私が言うと、彼の指が止まった。
「四百三十件のうち、六世代目より前が一件もない。……本家を探してたんでしょう。この中に混じってるかもしれないと思って、四百三十件、全部見たんでしょう」
彼は答えなかった。
「なかったの?」
「なかった」
彼はスマホを閉じた。それだけだった。
この日、誰も泣かなかった。
誰も謝らず、誰も許されず、誰も何かを言われて変わったりしなかった。犯人は捕まらず、動画はいまも増え続けている。
彼は最後に、決め台詞のようなものを一言も言わなかった。私はそれを、いまでもよく覚えている。
帰り道、私は一度だけ聞いた。
「何を探してるの」
彼はスマホをポケットに入れたまま歩いていた。十一月の夕方は、もう暗い。
「別に」
「別にって」
「別に」
それからしばらく歩いて、彼は歩幅を変えずに言った。
「オレさ。あの動画、面白いと思ってねえんだよ」
私は足を止めた。彼は止まらなかったので、私は少し走って追いついた。
「……じゃあ、なんで見てるの」
彼は答えなかった。自販機の前でも、踏切でも、その日は一度も立ち止まらなかった。
なお彼は、翌週にはこの事件のことを、きれいさっぱり忘れていた。ただ、四百三十件のリストだけは、消していなかった。
私はそれを、半年後に知ることになる。




