猫は誰の猫か
五月二十六日。窓を開けても、もう寒くない。彼は、猫を調べはじめた。
三年間、この人はこの動画を「探して」いた。「調べる」のは、初めてだった。窓を開けていて、遠くで部活のホイッスルが二度鳴った。
私は、その違いに、そのとき初めて気づいた。探すというのは、あることを前提にしている。調べるというのは、そうではない。
「動画は無いのよ」
「本家は無い。……でも、転載は四百三十四件ある」
彼は、そのリストを開いた。
「六世代目でも、猫は写ってる」
一つめ、首輪。
「猫、首輪してない」
「野良ってこと?」
「野良か、放し飼いだ。……で、毛並みが悪い」
「六世代目でもわかるの?」
「わかる。……背中の毛が、束になってる」
彼は、その一点を拡大した。粒が粗くても、たしかに束になっていた。
「手入れされてない。野良だ」
二つめ、床。
彼は、画面の下端を拡大した。
「猫が乗ってるの、まな板じゃない」
「え?」
「発泡スチロールの箱の蓋だ」
彼は、その縁を指でなぞった。角が、丸かった。
「魚屋とかで使うやつだ。……で、その下がアスファルトだ」
彼は、さらに下を拡大した。
「屋内じゃない。外だ」
私は、少し驚いた。三年間、私はあの動画を、誰かの台所だと思っていた。
「三年間、台所だと思ってたわ」
「オレも三年間、そう思ってた」
彼は、その画面を伏せなかった。
「なんで気づかなかったんだ」
彼は、画面を一度止めた。
「六世代目で見ると、暗くて、台所に見える。……オレ、六世代目しか見てねえんだよ、三年間」
三つめ、寿司。
ここまでで、二時間かかっていた。首輪と、床である。三年間、四百三十四件を見てきた人が、二時間で二つ新しいことを見つけた。私は、その二時間、彼の隣で同じ画面を見ていた。私には、何も見えなかった。
「で、寿司な」
「うん」
「あれ、寿司じゃない」
私は、手を止めた。
「え?」
「米の上に、なんか乗ってる。……で、それを猫が押さえてる」
彼は、そこを二回再生した。
「三年間、みんなそれを『寿司を握ってる』って呼んでた。……タイトルがそうだったからな」
彼は、再生を止めた。
「でも、握ってねえ」
「じゃあ、何をしてるの」
彼は、〇.二五倍速で再生した。十七秒が、六十八秒になった。
猫は、右前足を上げた。そして、下ろした。米の上に乗っているものを、二回、押さえた。
そして、口をつけた。
「食ってる」
「え?」
「押さえて、食ってる。……握ってるように見えるのは、押さえてるだけだ」
彼は、その六十八秒をもう一度流した。
「猫は、食い物を押さえて食う。……普通のことだ」
私は、その六十八秒を、三回見た。
そして、三回とも、猫は食べていた。三回目は、目を離さずに見た。どこにも、握るという動きは無かった。
「じゃあ」
私は、その画面を止めた。
「三年間、私たちが見てたのは」
「野良猫が、外で、飯食ってるだけの十七秒だ」
四つめ、場所。
彼は、そこで初めて背景を見た。三年間、彼が見ていたのは猫だけだったのだと思う。私も、そうだった。
彼は、背景を拡大した。
「奥に、電柱が一本ある。……で、その向こうに、シャッターが二枚」
「商店街?」
「商店街だ」
彼は、そのシャッターの色を拡大した。それから、電柱の広告を拡大した。
「で、シャッターの色と、電柱の広告」
彼は、その二つを並べた。
「うちの市だ」
私は、身を乗り出した。
「瀬々良木?」
「瀬々良木だ。……中央商店街の、西の端だ」
彼は、地図を出した。
「魚屋の裏だ。……いま潰れてるけど、三年前はあった」
「行ける?」
「行ける。……歩いて十五分だ」
私たちは、その日、そこに行った。魚屋は、潰れていた。シャッターが下りていた。だが、電柱は同じだった。
アスファルトの色も、たぶん同じだった。発泡スチロールの箱は、無かった。
猫も、いなかった。私は、そこに十分立っていた。十分、何も来なかった。
彼は、その十分のあいだ、発泡スチロールの箱が置いてあったはずの場所を見ていた。何も無いアスファルトである。私は、彼が何を見ているのかわからなかった。たぶん、彼にもわかっていなかったと思う。
「三年前は、いたのね」
「いた」
「乙川の家、ここから近いのかしら」
彼は、地図を出した。そして、しばらく見ていた。
「四百メートルだ」
私は、ノートの百十六件目に、こう書いた。
『猫は、野良である。飼い主はいない。』
『場所は、瀬々良木市中央商店街の西端、魚屋の裏。』
『乙川の家から、四百メートル。』
書きながら、私は四百メートルという距離を考えた。中学生が、毎日通る距離である。学校の行き帰りに、魚屋の裏を通る。通れば、発泡スチロールの箱の上に猫がいる。毎日いれば、毎日見る。三年間、数十万人が見た十七秒は、四百メートル歩けば毎日見られたものだった。見に行った人は、たぶん一人もいない。
そして、その下に、こう書いた。
『猫は、寿司を握っていない。食べているだけである。』
『三年間、四百三十四件の転載と、数十万人が、それを「寿司を握っている」と呼んでいた。』




