最後の一行
五月二十四日。
五月の下旬で、寮の窓は網戸だけにしてある。夜になっても、風がぬるい。虫が来る。私はその夜、電気を消してから画面を開いた。
遠山さんが、それを送ってきた。三年間、彼女が保存していたスクリーンショットである。
猫が寿司を握る動画を上げていたアカウントの、最後の投稿だった。三年前の一月十九日、二十一時十四分。
文章だけである。動画も写真もついていない。
一行だった。
『これ、おれが作ったやつじゃないんで、消します』
私は、それを三回読んだ。
そして、私には意味がわからなかった。文字は読める。一文字も難しい字が無い。それでも、意味が入ってこなかった。四百三十四件の転載があって、四万人のフォロワーがいて、三年間探されている一本の動画について、作った人が「作ったやつじゃない」と書いて消している。読んだ順に理解しようとすると、どこかで必ず引っかかる。引っかかるところが、たぶんこの事件の中身だった。
「作ったやつじゃない?」
私は、その一行を指でなぞった。
「転載だったってこと?」
「わからん」
ドパガキは、その画面を、たぶん五分見ていた。五分、一度もスクロールしなかった。一行しか無いので、スクロールする必要が無い。それでも、この人はふつう、一行でも指を動かす。動かさないというのは、読んでいないということである。読んでいないのに、目を離さない。五分、同じ一行の同じ位置を見ていた。
「一つめ、時刻」
「二十一時十四分だ。……で、乙川の最後の投稿は」
彼は、自分のメモを見た。三年前に自分で書いたメモである。
「二十一時九分だ」
「五分違い」
「五分違いだ」
彼は、二つの時刻を並べて書いた。
「同じ日、五分違いで、二つのアカウントが最後の投稿をしてる。……で、そのあと両方消えてる」
「二つめ、文体」
「『これ、おれが作ったやつじゃないんで、消します』」
彼は、その一行を指でなぞった。
「読点が二つ。……で、『おれ』が平仮名だ」
彼は、河内さんのメッセージを横に置いた。
「三年前の河内へのメッセージは」
私は、そのメモを見た。
『おれ、なんも作ってなかったわ』
「同じだ」
彼は、二つの「おれ」に丸を付けた。
「読点の位置。『おれ』が平仮名」
彼は、その二つの丸を線で結んだ。
「同じ人間だ」
私は、少し混乱した。
「同じ人間って」
私は、その二枚を交互に見た。読点の位置と、平仮名の「おれ」。並べられれば、同じだと見える。並べられるまで、私はその二つを別々のページに書いていて、同じだと気づかなかった。
「乙川くんが、猫のアカウントも持ってたってこと?」
「そうだ」
「でも、乙川くんは猫の動画をリポストしてたのよ。……自分の投稿を、自分でリポストしてたってこと?」
彼は、答えなかった。そして、こう言った。
「十四行目だ」
私は、思い出した。十四行目。日付が入っていない。六文字。
別アカウントから自分をフォローしていた、と私たちは結論した。
「あの別アカウントが」
「猫のアカウントだ」
彼は、その一行を指した。
「たぶん。……あいつ、二つ持ってた」
「三つめ、フォロワー」
「猫のアカウント、フォロワーは何人だったか、覚えてるか」
彼は、遠山さんに聞いた。彼女は、電話の向こうで、少し考えた。
「四万人くらいだったと思います」
「四万」
「四万です」
彼女は、言い直した。
「投稿は、一本しかなかったです」
「一本?」
私は聞き返した。
「一本だけです。猫の動画だけです。……他は、何も上げてなかったです」
彼女は、少し笑った。
「だから、変なアカウントだなって思ってました」
四万人が、一本の動画のために集まっていた。その一本を、四百三十四回転載されるまで見た人がいて、そのうちの一人が、私の隣にいた。
私は、頭の中で数字を並べた。並べてから、紙に書いた。四万と、十四である。三年間、私はその二つを別の事件として数えてきた。並べて書いてみると、同じ人が両方に立っている。並べるまで、私にはそれが見えなかった。
猫のアカウント。投稿一本。フォロワー四万人。
乙川のアカウント。投稿千件以上。フォロワー十四人。いいねゼロ。
同じ人間。
「四つめ」
彼の声が、少し変だった。高さが、一段低かった。
「乙川は、猫のほうを、毎日リポストしてた。……一年間だ」
「うん」
「なんでだと思う」
私は、答えられなかった。
「自分のとこに、人を連れてくるためだろ」
彼は、二つの数を線で結んだ。四万と、十四である。
「四万人いるほうから、十四人のほうに。……毎日貼れば、何人かは来ると思うだろ」
彼は、その線を消した。
「一年やった」
彼は、十四という数字を丸で囲った。
「十四人のままだ」
私は、何も返せなかった。
「押されてたのは、猫のほうだ。……沼尻が押してたのも、猫のほうだ」
彼は、その矢印を書いた。猫のアカウントに向かう矢印である。
「で、猫のほうのいいねは、猫のアカウントに行く。……乙川のアカウントには、一件も行かない」
「同じ人なのに」
「同じ人なのに」
彼は、その二つの丸のあいだに、線を引かなかった。
「機械は、アカウントしか見てねえからな」
私は、ノートの百十五件目に、こう書いた。
『猫のアカウントと、乙川のアカウントは、同じ人物である。』
『猫のアカウント:投稿一本、フォロワー四万人。』
『乙川のアカウント:投稿千件以上、フォロワー十四人、いいねゼロ。』
そして、その下に、こう書いた。
『最後の投稿:「これ、おれが作ったやつじゃないんで、消します」』
『まだ、意味がわからない。』
書いてから、私はその最後の一行をもう一度見た。「作ったやつじゃない」。三年間探してきた十七秒は、その人のものですらなかった。
彼は、その日、猫の話をしなかった。




