十二番目
十四行の、十二行目。五月に入って、日が長くなった。
三年前の一月八日にフォロー。
乙川がアカウントを消す、十一日前である。
三年間、いいねがゼロだったアカウントに、消える十一日前、一人だけ新しいフォロワーが来ている。
私は、その十一という数を、紙に書いてから彼に見せた。彼は、うなずいただけだった。十一日というのは、何かを決めるのに長すぎもせず、短すぎもしない。一日で決める人もいるし、決めないまま一年経つ人もいる。十一日考えた人がいて、十二日目に相手が消えた。その十一日を、私はしばらく紙の上で見ていた。
そのアカウントは、いまも動いていた。投稿は、料理である。一日一件。写真と、短い文章。
フォロワーは、二千人いた。十四人のうちで、一番多い。
遠山さんという人だった。
二十七歳で、県外に住んでいる。会社員である。
私たちは、電話で話した。五月の夕方で、彼の家の玄関先である。日が長くなって、六時でもまだ明るい。私は塀に背中を預けて、彼はいつも通りしゃがんでいた。
「乙川くん」
彼女は、コップの縁を指でなぞった。
「覚えてます。……三年前です」
「どうやって知ったんですか」
彼女は、少し黙った。
「猫からです」
私の隣で、ドパガキが顔を上げた。
「猫?」
「猫が寿司を握る動画です。……知ってますよね」
「知ってる」
「私、あれのファンだったんです。三年前の、まだあった頃です。毎日見てました」
彼女は、髪を一度耳にかけた。
「で、リポストしてる人が、一人だけいたんです」
「毎日リポストしてる人がいて。変だなと思って、見に行ったんです」
彼女の声が、換気扇の音より低くなった。
「そしたら、その人のアカウントに、別の投稿がありました。……窓の外とか、道とか、花とか」
彼女は、言い直した。
「そっちが、良かったんです」
私は、息を止めた。良かった、とこの人は言った。写真がうまい、とも言った。私は乙川の写真を一枚も見ていない。全部消えているからである。うまいかどうかを、私は一生わからないままになる。
「良かった、って」
「良かったです。写真がうまいんです。素人っぽいんですけど、うまいんです」
彼女は、言い直した。二度目のほうが、短かった。
「私、料理の写真を撮るんで。……光の入れ方でわかるんです」
「言いましたか」
ドパガキが聞いた。彼女は、少し黙った。
「言ってないです。フォローだけしました。……一月八日です」
彼女は、その日付を正確に言った。三年前の日付である。
「言おうと思ってたんです。……でも、十一日後に消えました」
「十一日」
「十一日です。私、フォローしてから、毎日見てました。で、何を言えばいいか考えてました」
彼女の声が、小さくなった。
「知らない大人に急に褒められたら、怖いかなと思って」
私は、七人目の園芸店の主人のことを思い出した。同じことを言っていた。
「中学生の子に、五十のおじさんが毎日押すのは、変かなと」
二人とも、相手のことを考えていた。二人とも、何も言わなかった。考えなかった人が黙っていたのなら、話は簡単である。考えたうえで、考えた結果として黙った人が、十四人のうちに二人いる。相手を怖がらせないために黙るという判断が、二回とも同じ方向に外れた。外れたことを、この二人はいまも知らない。
「十一日、考えたんですか」
「考えました。……十二日目に、消えてました」
長い沈黙があった。電話の向こうで、換気扇の音がしていた。夕方である。この人は毎日、料理の写真を一枚上げている。いま台所にいて、火を止めて話しているのだと思う。三年前に十一日考えた人が、いまも毎日一枚上げていて、フォロワーが二千人いる。二千人に届いている人が、あのとき一人に何も言えなかった。
「あの」
換気扇の音が、そこで止まった。
「はい」
「私、そのあと、猫のほうも見に行ったんです」
「猫のほうも?」
「はい」
彼女は、一度言葉を切った。
「そしたら」
彼女は、声を落とした。窓の外で、車が一台通った。
「そっちも、消えてました」
私は、ようやく気づいた。三年前の一月。乙川のアカウントが消えた。
そして、猫が寿司を握る動画のアカウントも、同じころに消えている。
三年間、私はその二つを別々のこととして書いてきた。ノートの、違うページに書いていた。
「同じ時期なんですか」
「同じ日です」
「同じ日?」
「たぶん。……私、両方見てたんで。同じ日に、両方消えました」
ドパガキが、初めて口を開いた。
「三年前の一月十九日か」
「そうです」
彼女は、少し驚いた声を出した。
「よく覚えてますね」
「覚えてる」
「あの」
「はい」
「猫のほうが、なんで消えたか」
彼女は、テーブルの上で手を組み直した。
「私、たぶん知ってます」
私たちは、両方とも黙った。
私は、ペンを握り直した。ドパガキは、スマホを机に置いた。置いてから、一度も触らなかった。
「知ってるんですか」
「はっきりとは知らないです。……でも、あの人、消える前に一件だけ書いてます」
彼女は、その画面を探す音をさせた。三年前のスクリーンショットである。探すのに、一分近くかかった。電話の向こうで、指が滑る音が聞こえた。三年ぶんを遡る音を、私はこの二か月で何度も聞いている。
「私、それを保存してます」
「見せてもらえますか」
「いいですよ」
彼女は、電話の向こうで一度手を止めたようだった。
「でも」
電話の向こうで、椅子が引かれる音がした。
「あんまり、いい話じゃないです」
電話を切ったあと、私たちは十分くらい黙っていた。彼は、机に置いたスマホを、そのあいだ一度も持ち上げなかった。三年間探してきた動画の、消えた理由が、明日わかる。それを聞く前の十分だった。
私は、ノートの百十二件目に、こう書いた。
『十二人目。遠山さん。猫を辿って乙川に来た。十一日考えて、間に合わなかった。』
そして、その下に、こう書いた。
『猫の動画の投稿者も、同じ日に消えている。』
『遠山さんは、その理由を知っている。』




