見たくないものを見る
五月。駅前は、日陰だけがまだ冷たい。十二人目に行く前に、彼はこう言った。
「やめようと思ってる」
私たちは、瀬々良木駅の日陰にいた。ロータリーで、バスがドアを開ける音が二度した。三月からここまで、私はこの日陰に十一回来ている。一人につき一回である。
五月である。日陰は、もう寒くなかった。彼は、それでも日陰にいた。
「やめる?」
「やめる」
彼は、その紙を出さなかった。三月から、この人は必ずあの紙を出していた。
「残り三人だぞ」
「なんで」
彼は、しばらく答えなかった。
「答えが出るからだ」
「答えが出るのが、嫌なの?」
「嫌だ」
「答え、わかってるの?」
「わかってる」
「言ってみて」
彼は、少し黙った。そして、こう言った。
「十一人のうち、九人が覚えてた」
彼は、指を折りはじめた。
「押したことがあるのが一人。それも、猫のほうだ」
彼は、二本目を折った。
「面白いって言ったことがあるのが一人。それも、一回だけだ」
彼は、手を止めた。折った指は、二本だった。十一人のうち、二人である。
「あと九人は、見てただけだ」
「残り三人は」
「同じだろ。……三人とも、たぶん、覚えてるか、覚えてないかだ」
彼は、その手を下ろした。
「で、押してない。……で、それで終わりだ」
「それが答え?」
「それが答えだ。……三年前から、たぶんそうだと思ってた」
彼は、スマホを持ち替えた。
「調べたら、その通りだった。……あと三人調べても、変わらねえよ」
私は、少し考えた。考えたのは、言うか言わないかである。三年間、私はこの人に何かを言ったことがほとんど無い。聞いてきただけだった。
そして、こう言った。
「あなた、三年間、他人の動機を当ててきたわね」
「当ててきた」
「百十一件よ」
「そんなにか」
「そんなによ。……私が数えたから、正確よ」
「で?」
「あなた」
私は、一度言葉を切った。日陰の縁が、足元まで来ていた。
「自分の動機は、一回も当ててないわ」
彼は、顔を上げた。
「なんで乙川を探してるの?」
彼は、答えなかった。
「三年よ」
私は、その時間を計算した。八時間掛ける千日である。
「一日八時間、三年間。……一万時間くらいかしら」
私は、その数字を口に出した。
「その時間で、あなたは何を探してたの?」
彼は、まだ答えなかった。日陰の中で、地面を見ていた。三年間、この人が地面を見ているのを、私は初めて見た。いつもは画面を見ている。
「猫の動画?」
「違う」
彼は即答した。
「乙川?」
「……違う」
そこは、即答ではなかった。
「じゃあ、何?」
彼は、たぶん一分くらい黙っていた。日陰の中で、一分である。駅前を、そのあいだにバスが二台通った。改札から人が出てきて、通り過ぎていく。この人は、その全部を見ていなかった。画面も見ていなかった。何も見ずに一分立っている人を、私はそれまで見たことがない。
そして、こう言った。
「わからん」
私は、その二文字を待っていたわけではない。だが、他に来るものも思いつかなかった。
「わからないの?」
「わからん。……三年考えて、わからん」
私は、少し冷たいことを言った。言おうと思って言ったのではない。口から出た。
「答えられないなら」
「やめていいと思う」
彼は、その言葉を聞いて、しばらく動かなかった。そして、こう言った。
「そうだな」
「やめる?」
「やめない」
「なんで」
彼は、立ち上がった。日陰から、半分だけ出た。
「答えがわからねえから、続ける」
彼は、一度こちらを見た。
「わかってたら、とっくにやめてる。……三年前に、答えがわかってたら、オレは高校で普通に勉強して、普通に進学してたと思う」
彼は、また前を向いた。
「わからねえから、見てる」
三年前、この人は高校で普通に勉強していたはずだ、と自分で言った。私は、その高校三年間を見ている。この人が普通に勉強しているところを、私は一度も見ていない。
「見たくないものを見ることになるわよ」
「なる」
彼は、指を十一本ぶんのかたちに動かした。
「十一人ぶん、もう見た。……あと三人だ」
私たちは、その日、それ以上何も話さなかった。彼は、日陰から出た。そして、駅の階段を上っていった。
私は、その背中を見ていた。五月の日向は、もう明るい。
階段の途中で、彼は一度立ち止まった。スマホを出したのだと思う。三段目くらいで止まって、そのまま二分くらい動かなかった。それから、また上っていった。
私は、ノートの新しいページに、こう書いた。
『五月三日。土場我輝、やめようと思っていると言う。』
『やめないと言う。』
『理由を聞いた。答えられなかった。』
そして、その下に、こう書いた。
『この人は、百十一件の動機を当ててきた。』
『自分の動機だけ、わからないでいる。』
そして、一行足した。
『私も、わからない。』
『私が、なんでこれを三年間書いているのかも、わからない。』
書いてから、私はそのページを一度閉じて、また開いた。開いて、消さなかった。




