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忘れない事件

 四月。私は大学三年になった。四月の川べりは、風がまだ冷たい。十一人目までが終わって、二週間が経っていた。


 四月十二日、私は瀬々良木に帰った。

 彼は、駅前の日陰にいた。四月の日陰である。まだ寒そうだった。三月に一度だけ日向に立っていたのを、私はまだ覚えている。あれは十四行の紙を出した日だった。日向に立ったのはあの一度きりで、それきり、この人はまた影のあるほうに戻っている。私は改札を出てすぐ、彼を見つけた。見つけ方が、三年で変わっていない。

「先週、何があった?」

 私は、いきなりそう聞いた。挨拶をしなかった。


「先週?」

「四月の五日から十一日」

「なんで」

「いいから」


 彼は、少し考えた。考えている時間が、二秒しかなかった。そして、言った。

「五日、桧垣から連絡が来た。裏アカのアーカイブの件で、一件だけ見落としがあったって。……見たけど、乙川じゃなかった」

 彼は、指を折りはじめた。

「六日、なんもねえ」

「七日、吉住から相談が来た。一年の女子が消える投稿で揉めてるやつ。……三十分で終わった」

「八日、あんたから連絡が来た。『十二人目、いつ行く』って。返信してない」

「九日、河内に電話した。三年前のメッセージ、他にも残ってないか聞いた。無かった」

「十日、なんもねえ」

 彼は、七本目を折った。

「十一日、園芸店に行った。乙川が撮った写真、まだ残ってないか聞いた。残ってなかった」


 私は、その七日分を、全部メモした。日付も、相手も、結果も、全部揃っていた。私が三年間ノートに書いてきたものと、同じ形をしていた。違うのは、この人が紙を見ずに言ったことである。紙を見ずに七日ぶんを日付つきで言えるということが、私にはよくわからなかった。

 そして、こう聞いた。

「三年前の四月の第二週は?」


 彼は、止まった。指がスマホの上で浮いたままだった。

「覚えてない」

「じゃあ、去年の四月は」

「覚えてない」

「先月は?」

「覚えてる」

 彼は、指を折らなかった。折る必要が無かった。

「全部か」

「全部だ」


 私は、自分が何を確認したかったのかを、そのとき初めて自覚した。

 私は、この人が忘れていることを確かめに来たのである。忘れていてほしかったのだと思う。それは、たぶん、この人のためではなかった。


「あなた、三年間、翌週には忘れてたわ」

「忘れてた」

「六十八件、全部よ」

「全部だ」

「いま、忘れてないでしょう」

 彼は、答えなかった。


「いつから」

 彼は、少し黙った。

「三月五日。……あんたが名前を言った日だ」


 私の背中が、そのとき冷たくなった。

「私が言ったからなの?」

「知らね。……でも、その日からだ」

 彼は、スマホを膝に伏せた。伏せるのを、私は初めて見た。

「三月五日から今日まで、一日も忘れてねえ」


「よかったじゃない」

 言ってから、それが本心ではないと気づいた。

「よくねえよ」

「なんで」

 彼は、スマホをポケットに入れた。この人がスマホをしまうのを、私は数えるほどしか見ていない。

 そして、こう言った。

「多いんだよ」


「多い?」

「三十八日ぶんある。……一日に、二十本くらい動画を見る。三十八日で七百六十本だ」

 彼は、その掛け算を暗算で出した。二秒だった。

「全部覚えてる」

「そんなに?」

「全部だ。……昨日見た七百六十本目まで、全部言える」


「言ってみて」

 彼は、言おうとして、やめた。口が、半分開いたまま止まった。

「やめとく」

「なんで」

「言うと、また増える」


 私は、その言葉の意味を、正確には理解できなかった。

 だが、理解できなくても、それが良くないことだというのは、わかった。

 言えば増える、というのは、たぶん、言葉にすると輪郭がはっきりする、ということだと思う。私は三年間ノートに書いてきた。書くと、残る。残ると、思い出せる。私がやってきたのは、そういうことだった。


「蜂谷さんが」

「うん」

「『羨ましいです』って言ったの、覚えてる?」

「覚えてる」

 彼は、一度も詰まらずに続けた。

「三年前の八月だ。駅前のチェーン店だ。あいつは麦茶を頼んだ。オレはコーラだった。あんたはコーヒーだった」

 私は、自分が何を頼んだかを覚えていなかった。三年前の八月である。麦茶とコーラは、言われれば思い出せる。自分のぶんだけ出てこない。他人の注文は覚えていて自分のは覚えていないというのが、私にはうまくわからなかった。

「あいつはこう言った。『忘れられたら、降りられるじゃないですか』」


「そう言ったわね」

「言った」

「で?」

「いま、あなたが降りられなくなってる」

 彼は、答えなかった。


「あなた、忘れてたころのほうが」

 私は言いかけた。

「言うな」

 はっきりと、強く言った。私が、彼にそう言われたのは、三年間で二度目である。一度目は、私が推理されそうになったときだった。


「言うな」

 彼は、もう一度言った。そして、少し間を置いて、こう付け足した。

「オレも思ってる」


 私は、その日、寮に戻る電車の中で、ノートを開いた。そして、こう書いた。

『四月十二日。土場我輝、三十八日ぶんを全部覚えている。』

 そして、その下に、こう書いた。

『三年間、彼は全部忘れていた。』

『それが、この人の一番いいところだと、私は思っていた。』

『いま、忘れなくなった。』


 私は、それを、喜べなかった。

 三年間、私は彼が忘れることを、少し寂しく思っていた。六十八件、全部忘れる人の隣で、私だけが書いていた。書いていたのは、そのためである。

 いま、彼は忘れない。私のノートは、そのぶん、要らなくなったはずだった。そうは、ならなかった。


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