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三分以上

 三月二十八日。三月の終わりの部屋は、暖房を切ると三十分で冷える。

 土場我輝は、朝の九時から、夕方の五時まで、机の前に座っていた。


 場所は、彼の家である。私は、その日、荷物を取りに行くついでに寄った。そして、そのまま八時間いた。八時間のあいだ、部屋で鳴った音は、彼がページをめくる音だけだった。

 帰るつもりだった。三十分で帰るつもりだった。帰らなかった理由は、うまく説明できない。ただ、この人が何かを八時間やるところを、私は三年間で一度も見ていなかった。


 彼は、十一人分の記録を整理していた。

 紙に書いていた。パソコンではなく、スマホでもなく、紙にである。

 私が渡したノートの写しと、彼が書き写した十四行と、四百三十四件のリストと、それから彼自身の記憶。

 机の上が、紙で埋まっていった。四時間目には、床にも置きはじめた。順番が決まっているらしく、置く場所を一度も間違えない。取るときも、見ずに手が伸びる。三十枚を超えたあたりから、私にはどれがどれだかわからなくなった。この人には、たぶん最後まで全部わかっていた。


 九時から十時まで。彼は、十一人を時系列に並べた。十時から十二時まで。彼は、乙川の投稿を、覚えている限り書き出した。

 二百四十件書いた。


 十二時に、彼のお母さんが昼ご飯を持ってきた。彼は、それを見なかった。

「食べないの」

 私が言うと、彼は「あとで」と言った。

 お母さんは、何も言わずに置いて出ていった。慣れている置き方だった。


 十三時から十五時まで。彼は、その二百四十件を、日付順に並べ直した。

 そして、四年前の十月に線を引いた。定規を使わないので、線が斜めになった。三年見てきて、この人が定規を使ったところを、私は一度も見ていない。

 牧田さんが「昨日のやつ、面白かった」と言った日である。その線の前が、百六十件。線の後が、八十件。


「変わってる」

 彼は、その線を指でなぞった。

「線の前は、全部自分で撮ったやつだ。……線の後は、六十件が他人のやつだ」


 十五時から十七時まで。彼は、その八十件の内訳を書いた。

 猫が寿司を握る動画のリポストが、五十二件あった。

 残り二十八件のうち、自分で撮ったものは、十一件だった。

 私は、その十一件の内訳も聞いた。窓の外が四件。道が三件。花が二件。あと二件は、彼にも思い出せなかった。この人が思い出せないものが二件あることに、私は少し驚いた。


「一年で十一件だ」

 彼は、二つの数を並べた。百六十と、十一である。

「その前は、一年で百六十件だ。……十五分の一になってる」


 十七時に、彼は顔を上げた。そして、こう言った。

「腹減った」


 私は、その日、時計を見ていた。正確には、彼を見ていた。

 彼は、九時から十七時までのあいだに、四回顔を上げた。

 一回目は、十一時二十分。ペンが切れたときである。彼は、私に「ペン」と言った。それだけである。私は、鞄から一本出して渡した。

 二回目は、十三時四分。私がお茶を置いたときである。三回目は、十五時三十分。理由はわからない。

 四回目が、十七時である。窓の外は、もう暗くなりかけていた。三月の終わりの、五時の暗さである。部屋の電気は、昼のあいだ一度もつけなかった。日が回って、机の上の明るさが少しずつ落ちていく。それに気づかないまま、この人は八時間書いていた。私も、電気をつけようと言わなかった。


 八時間で、四回である。

 私は、その四回を、ノートの余白に書いていた。書いていて、途中から手が止まらなくなった。


 私は、その事実を、どう書けばいいのかわからない。三年前、私はノートの一行目に、こう書いた。

「うちのクラスには、三分以上ひとつのことに集中できない男がいる」


 私は、それが彼の説明だと思っていた。三年間、そう思っていた。彼自身も、そう言っていた。

「オレ、三分で切れるんだよ」

「バイトも三回クビになってる」

「進学もしない。働けない」


 八時間である。


「あなた、三分で切れるんじゃなかったの」

 彼は、ペンを置いた。

 そして、少し不思議そうな顔をした。本当に、わからない顔だった。

「切れてる」

「切れてない。……八時間座ってたわ」

「座ってた」

 彼は、机の上の紙を見回した。床のぶんまで見た。

「でも」

 彼は、その一枚を戻した。

「同じこと考えてただけだ」


「同じこと?」

「一個のことだけだ」

 彼は、指を一本立てた。

「オレ、いろんなことは無理なんだよ。三分で切れる」

 彼は、その指を折らなかった。

「でも」

 彼は、机の上の紙を一枚だけ持ち上げた。

「一個だけなら、切れねえ」


 私は、その日の夜、寮に戻る電車の中で、ずっとそのことを考えていた。彼は、集中できないのではない。

 一つのことしか、できないのである。

 そして、その一つは、三年前から決まっている。正確には、三年と二か月前である。三年前の一月十九日に、彼が本家を最後に見た日から数えて、である。

 だから、他のものが入ってこない。授業も、バイトも、進路も、全部である。


 私は、ノートの新しいページに、こう書いた。

『三月二十八日。土場我輝、八時間座る。』

『三分以上ひとつのことに集中できない、というのは、間違いだった。』

『三分以上、別のことに集中できないのだ。』


 そして、その下に、こう書いた。

『これは、いいことなのか?』

 答えは、書かなかった。


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