八人目
十四行の、八行目。
五年前の五月十一日。中学の同級生である。
牧田さんという人だった。
いまは、県内の大学の一年生である。
私たちは、大学の食堂で会った。昼を過ぎていて、人はまばらだった。五月の食堂は、冷房がまだ入っていない。窓を開けてあって、風がテーブルの上を通る。窓際の四人掛けに三人で座って、テーブルの上には何も置かなかった。この人は飲み物も頼まなかった。頼まないまま、三十分ぶん話してくれた。八人目にして初めて、こちらが質問する前に相手が話しはじめた。
「乙川、覚えてます」
彼女は、一度も詰まらずに言った。三年C組で、窓側の後ろから二番目。私は、その席の位置を頭の中で置いてみた。窓側の後ろから二番目というのは、教室の中で一番外が見える席である。それが偶然かどうかは、私にはわからない。
「三年C組で、窓側の後ろから二番目でした」
私は、驚いた。
そこまで正確に言った人は、初めてである。八人目にして、初めてだった。
「よく話しました?」
「話してないです。……一回だけです」
「一回?」
「一回だけ、話しました」
彼女は、指を一本立てた。
「四年前の秋です。……たしか、十月です」
「なんて話しましたか」
彼女は、少し照れた。
「『昨日のやつ、面白かった』って言いました。……それだけです」
私は、隣を見た。ドパガキが、動かなくなっていた。スマホは、机の上に置いてあった。画面は、消えていた。
「乙川くん、なんて言いましたか」
彼女は、思い出す顔をした。
「なんも言わなかったです」
「え?」
「『あ』って言って、それで終わりです」
彼女は、少し肩をすくめた。
「変な感じでした。……逃げるみたいに行っちゃったんで」
「そのあと」
「そのあと、投稿が止まりました」
「止まった?」
「三日、上げなかったです」
彼女は、三本の指を立てた。三日というのを、この人は四年経ってもはっきり覚えている。気にしていたからである。悪いことを言ったのではないかと思って、四日ぶん数えた。数えた人が、ここに一人だけいた。十四人のうちで乙川の投稿の間隔を気にした人は、この人が初めてだった。
「毎日上げてたのに、三日止まりました。……私、なんか悪いこと言ったのかなって、けっこう気にしてました」
「四日目は」
「四日目から、また始めました」
彼女は、その指を四本にした。
「でも」
彼女は、その四本目の指を折った。
「内容が変わりました」
私は、手を止めた。ペンを持ったまま、書けなくなった。三年間、私は人の話を聞きながら書く練習をしてきた。聞きながら書けるようになったのは、たぶん一年目の終わりからである。書けなくなるのは、話の先が見えたときだけだった。この日は、先が見えたのではない。見えかけたものを、見たくなかっただけである。
「どう変わりましたか」
彼女は、少し考えた。
「それまでは、自分で撮ったやつだったんです。窓の外とか、道とか、花とか。……なんでもないやつです」
彼女は、一度言葉を切った。
「四日目から」
彼女は、机の上を一度見た。何も置いていない机である。私はその机を挟んで座っていて、この人の手がどこにも触れていないことに気づいた。三十分、何にも触らずに喋っている。
「他の人の動画を、貼るようになりました」
「他の人の」
「はい。……一番多かったのが、猫が寿司握るやつです」
彼女は、少し笑った。何がおかしいのかは、彼女にもわかっていないようだった。
「毎日、同じの貼ってました。……一年くらいです」
私は、全部が繋がった気がした。
そして、繋がったことが、あまりにも簡単で、あまりにも救いがないので、私は少し黙った。
食堂の食器を下げる音が、遠くで二回した。
「なんで変わったんだと思いますか」
牧田さんは、しばらく考えた。そして、こう言った。
「怖くなったんだと思います」
「怖い?」
「私、押してないんです。……見てもいなかったです、実は」
彼女は、目を伏せた。
「あの日、たまたま一個流れてきて、それで言っただけです」
彼女は、顔を上げた。
「あいつ、たぶん、見られてると思ったんです」
「見られてると、怖いんですか」
彼女は、少し笑った。
「怖いですよ。……誰も見てないと思って上げてたのに、一人見てたって知ったら」
彼女は、自分の腕をさすった。
「私だったら、怖いです」
ドパガキは、それまで一言も喋っていなかった。そこで、こう言った。
「オレ、一回も言ってねえ」
牧田さんは、その言葉の意味がわからなかった。私は、わかった。
「三年間、毎日見てた」
彼は、消えた画面を見ていた。画面が消えていると、そこには自分の顔が映る。食堂の天井の照明と、自分の輪郭が、黒い長方形の中にある。この人がそれを見ているところを、私は初めて見た。三年間、この人が見ていたのは、いつもついているほうの画面だった。
「一回も、面白いって言ってねえ。……押してもねえ。コメントもしてねえ」
彼は、その画面をつけなかった。
「一回も、何もしてねえ」
「言ってたら、変わってた?」
彼は、即答した。
「変わってた」
「なんで断言できるの」
彼は、牧田さんのほうを指した。
「こいつが言ったら、変わったからだ」
彼は、指を一本立てた。
「一回だ。一言だ。『昨日のやつ、面白かった』」
彼は、その指を三本にした。
「それで、三日止まって、内容が変わった。……一言で変わるんだよ、あいつは」
「じゃあ」
私は言いかけて、やめた。
「オレが言わなかったから」
彼は、その手を下ろした。
「変わらなかった」
彼は、間を置いた。
「三年間、変わらなかった。……毎日投稿して、いいねゼロで、誰にも何も言われなくて」
彼は、初めて画面をつけた。つけて、すぐ消した。
「それが三年だ」
牧田さんは、その場では何も言わなかった。帰り際に、こう言った。
「あの」
「はい」
「私が言ったのは、良かったんですか、悪かったんですか」
ドパガキが、初めて彼女を見た。そして、こう言った。
「良かった」
「良かった?」
「良かった」
彼は繰り返した。繰り返し方が、いつもより強かった。
「一言で三日止まったってことは」
彼は、一度言葉を切った。
「届いてたってことだ」
私は、ノートの百八件目に、こう書いた。
『八人目。牧田さん。一度だけ「面白かった」と言った。』
そして、その下に、こう書いた。
『それだけが、三年間で唯一、届いた言葉である。』
書いてから、私は「唯一」という言葉を消そうとして、やめた。確かめたのは十人目までである。あと四人いる。四人のうちの誰かが、何か言っているかもしれない。それでも私は、唯一と書いた。書いてしまったほうが、あとで直せる。空けておくと、直すこともできない。




