↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
118/143

八人目

 十四行の、八行目。

 五年前の五月十一日。中学の同級生である。


 牧田さんという人だった。

 いまは、県内の大学の一年生である。

 私たちは、大学の食堂で会った。昼を過ぎていて、人はまばらだった。五月の食堂は、冷房がまだ入っていない。窓を開けてあって、風がテーブルの上を通る。窓際の四人掛けに三人で座って、テーブルの上には何も置かなかった。この人は飲み物も頼まなかった。頼まないまま、三十分ぶん話してくれた。八人目にして初めて、こちらが質問する前に相手が話しはじめた。


「乙川、覚えてます」

 彼女は、一度も詰まらずに言った。三年C組で、窓側の後ろから二番目。私は、その席の位置を頭の中で置いてみた。窓側の後ろから二番目というのは、教室の中で一番外が見える席である。それが偶然かどうかは、私にはわからない。

「三年C組で、窓側の後ろから二番目でした」

 私は、驚いた。

 そこまで正確に言った人は、初めてである。八人目にして、初めてだった。


「よく話しました?」

「話してないです。……一回だけです」


「一回?」

「一回だけ、話しました」

 彼女は、指を一本立てた。

「四年前の秋です。……たしか、十月です」


「なんて話しましたか」

 彼女は、少し照れた。

「『昨日のやつ、面白かった』って言いました。……それだけです」


 私は、隣を見た。ドパガキが、動かなくなっていた。スマホは、机の上に置いてあった。画面は、消えていた。


「乙川くん、なんて言いましたか」

 彼女は、思い出す顔をした。

「なんも言わなかったです」

「え?」

「『あ』って言って、それで終わりです」

 彼女は、少し肩をすくめた。

「変な感じでした。……逃げるみたいに行っちゃったんで」


「そのあと」

「そのあと、投稿が止まりました」


「止まった?」

「三日、上げなかったです」

 彼女は、三本の指を立てた。三日というのを、この人は四年経ってもはっきり覚えている。気にしていたからである。悪いことを言ったのではないかと思って、四日ぶん数えた。数えた人が、ここに一人だけいた。十四人のうちで乙川の投稿の間隔を気にした人は、この人が初めてだった。

「毎日上げてたのに、三日止まりました。……私、なんか悪いこと言ったのかなって、けっこう気にしてました」


「四日目は」

「四日目から、また始めました」

 彼女は、その指を四本にした。

「でも」

 彼女は、その四本目の指を折った。

「内容が変わりました」


 私は、手を止めた。ペンを持ったまま、書けなくなった。三年間、私は人の話を聞きながら書く練習をしてきた。聞きながら書けるようになったのは、たぶん一年目の終わりからである。書けなくなるのは、話の先が見えたときだけだった。この日は、先が見えたのではない。見えかけたものを、見たくなかっただけである。

「どう変わりましたか」

 彼女は、少し考えた。

「それまでは、自分で撮ったやつだったんです。窓の外とか、道とか、花とか。……なんでもないやつです」

 彼女は、一度言葉を切った。

「四日目から」

 彼女は、机の上を一度見た。何も置いていない机である。私はその机を挟んで座っていて、この人の手がどこにも触れていないことに気づいた。三十分、何にも触らずに喋っている。

「他の人の動画を、貼るようになりました」


「他の人の」

「はい。……一番多かったのが、猫が寿司握るやつです」

 彼女は、少し笑った。何がおかしいのかは、彼女にもわかっていないようだった。

「毎日、同じの貼ってました。……一年くらいです」


 私は、全部が繋がった気がした。

 そして、繋がったことが、あまりにも簡単で、あまりにも救いがないので、私は少し黙った。

 食堂の食器を下げる音が、遠くで二回した。


「なんで変わったんだと思いますか」

 牧田さんは、しばらく考えた。そして、こう言った。

「怖くなったんだと思います」

「怖い?」

「私、押してないんです。……見てもいなかったです、実は」

 彼女は、目を伏せた。

「あの日、たまたま一個流れてきて、それで言っただけです」

 彼女は、顔を上げた。

「あいつ、たぶん、見られてると思ったんです」


「見られてると、怖いんですか」

 彼女は、少し笑った。

「怖いですよ。……誰も見てないと思って上げてたのに、一人見てたって知ったら」

 彼女は、自分の腕をさすった。

「私だったら、怖いです」


 ドパガキは、それまで一言も喋っていなかった。そこで、こう言った。

「オレ、一回も言ってねえ」


 牧田さんは、その言葉の意味がわからなかった。私は、わかった。

「三年間、毎日見てた」

 彼は、消えた画面を見ていた。画面が消えていると、そこには自分の顔が映る。食堂の天井の照明と、自分の輪郭が、黒い長方形の中にある。この人がそれを見ているところを、私は初めて見た。三年間、この人が見ていたのは、いつもついているほうの画面だった。

「一回も、面白いって言ってねえ。……押してもねえ。コメントもしてねえ」

 彼は、その画面をつけなかった。

「一回も、何もしてねえ」


「言ってたら、変わってた?」

 彼は、即答した。

「変わってた」


「なんで断言できるの」

 彼は、牧田さんのほうを指した。

「こいつが言ったら、変わったからだ」

 彼は、指を一本立てた。

「一回だ。一言だ。『昨日のやつ、面白かった』」

 彼は、その指を三本にした。

「それで、三日止まって、内容が変わった。……一言で変わるんだよ、あいつは」


「じゃあ」

 私は言いかけて、やめた。

「オレが言わなかったから」

 彼は、その手を下ろした。

「変わらなかった」

 彼は、間を置いた。

「三年間、変わらなかった。……毎日投稿して、いいねゼロで、誰にも何も言われなくて」

 彼は、初めて画面をつけた。つけて、すぐ消した。

「それが三年だ」


 牧田さんは、その場では何も言わなかった。帰り際に、こう言った。

「あの」

「はい」

「私が言ったのは、良かったんですか、悪かったんですか」


 ドパガキが、初めて彼女を見た。そして、こう言った。

「良かった」

「良かった?」

「良かった」

 彼は繰り返した。繰り返し方が、いつもより強かった。

「一言で三日止まったってことは」

 彼は、一度言葉を切った。

「届いてたってことだ」


 私は、ノートの百八件目に、こう書いた。

『八人目。牧田さん。一度だけ「面白かった」と言った。』

 そして、その下に、こう書いた。

『それだけが、三年間で唯一、届いた言葉である。』

 書いてから、私は「唯一」という言葉を消そうとして、やめた。確かめたのは十人目までである。あと四人いる。四人のうちの誰かが、何か言っているかもしれない。それでも私は、唯一と書いた。書いてしまったほうが、あとで直せる。空けておくと、直すこともできない。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。