三人目
十四行の、三行目。
五年前の五月十二日にフォロー。中学の同級生である。
一人目と二人目は五月十一日だった。この人だけ、一日遅い。
沼尻という人だった。
いまは、市内の会社で働いている。二十歳である。高校を出て、そのまま就職していた。私たちは、彼の昼休みに、会社の近くの公園で会った。
四月の公園は、人が多い。滑り台の下に、小さい子が三人いた。順番を守らずに、同じ子が三回続けて上っている。あとの二人は、それを怒りもせずに待っていた。私たちはベンチに座った。昼休みのうち、この人がくれたのは二十分である。二十分で三年ぶんの何かが動くとは、そのとき誰も思っていなかった。
「乙川、覚えてますよ」
彼は、開口一番そう言った。三人目にして、初めてである。私は、ペンを構えた。
「よく話しました?」
「話してないです。……でも、動画は覚えてます」
私は、身を乗り出した。
ドパガキも、少し顔を上げた。この人が手がかりの途中で顔を上げるのを、私は久しぶりに見た。
「どんな動画でしたか」
「面白かったですよ。毎日上げてて」
彼は、一度笑った。
「一個、めちゃくちゃ覚えてるのがあります」
「なんですか」
彼は、笑いながら言った。
「猫が寿司握るやつです」
私の隣で、ドパガキが動くのが見えた。彼は、立ち上がっていた。
自分で立ったのか、体が勝手に立ったのか、私にはわからなかった。ベンチが、少し鳴った。
「猫が」
彼の声が、少しおかしかった。高さが、いつもと違った。
「猫が寿司握るやつです」
沼尻さんは、もう一度言った。
「有名なやつですよね。三年前の。……あれ、乙川が上げてたんです」
私は、その一言を書き取れなかった。ペンは持っていた。手が動かなかった。三年間、私はこの動画の名前を、ノートに何度も書いている。四百三十件。四百三十四件。三十四行。全部、この一本のことである。
「上げてた」
「はい」
「上げてたって、どういう意味だ」
沼尻さんは、少し戸惑った顔をした。滑り台の子が、一人下りてきた。
「え?」
「あれ、乙川が作ったのか」
「いや」
彼は、首を振った。
「作ってはないと思います。……あいつ、毎日上げ直してたんです」
私には、意味がわからなかった。
「上げ直す?」
「リポストっていうか。同じやつを、毎日、自分のとこに貼ってました」
彼は、指を一本立てた。
「一年くらい、毎日です」
一年、と私は頭の中で数えた。三百六十五回である。同じ十七秒を、三百六十五回、自分のところに貼り直した人がいる。
「一年」
「一年です」
「毎日?」
「毎日です」
彼は、少し笑った。
「なんか、変な奴だなって思ってました。……同じやつを毎日上げるんで」
「それに、押したか」
「押しました」
沼尻さんは、あっさり言った。
「猫、かわいかったんで」
「毎回押したんですか」
「毎回じゃないです。たまにです。……あ、でも」
彼は、言い直した。
「猫のときは押してました」
「猫のときだけか」
沼尻さんは、少し考えた。そして、こう言った。
「……たぶん、そうです」
公園の空気が、少し変わった気がした。
そう感じたのは、私だけかもしれない。滑り台の子は、まだ滑っていた。
「乙川本人の投稿には」
「押してないです」
「なんで」
「猫のほうが面白かったんで」
悪気は、まったくなかった。それが、一番こたえた。
「いいね、ゼロだったんです」
「え?」
「乙川くんのアカウント。三年間、いいねゼロでした」
沼尻さんが、初めて戸惑った。
「え、押してましたよ、僕」
「猫にですよね」
「……あ」
彼は、自分のスマホを出しかけて、やめた。そして、しばらく黙った。
「そうか」
彼は、自分の親指を見た。
「リポストは、押しても向こうに行かないのか」
私は、その仕組みを知っていた。
引用やリポストに押されたものは、元の投稿者に届く。リポストした人には、届かない。
つまり——
沼尻さんが三年間押していたのは、猫の動画の投稿者に届いていた。
乙川には、一件も届いていなかった。
三年間、乙川のアカウントのいいねはゼロだった。私はそれを、誰も押さなかったからだと思っていた。押していた人は、いた。押していた先が、違っただけである。
ドパガキは、公園のベンチに座り直した。
そして、十分くらい、何も言わなかった。滑り台の子は、そのあいだに帰った。
「あの」
沼尻さんが言った。
「はい」
「乙川、いま何してるんですか」
「わからないです」
「そうですか」
彼は、腕時計を見た。昼休みが、あと五分だった。そして、こう言った。
「猫、また見たいな」
私は、ノートの百五件目に、こう書いた。
『三人目。沼尻さん。覚えている。』
そして、その下に、こう書いた。
『覚えていたのは、乙川の投稿ではなかった。』
書いてから、私はもう一行足そうとして、やめた。足そうとした一行は、乙川についてではなかった。隣に座っていた人についてである。あの人は十分、公園のベンチで何も言わなかった。三年間探してきた十七秒の出どころが、いま目の前で名前を持った。持った瞬間に、それは探すものではなくなる。そのことを書こうとして、私はまだ書ける気がしなかった。




