二人目
十四行の、二行目。
五年前の五月十一日にフォロー。一行目と同じ日である。
アカウントは、二年前に止まっていた。だが残っていた。
小西さんという人だった。
同じ中学の同級生で、いまは県外の専門学校にいる。
私たちは、電話で話した。私が電話をかけ、彼は横で聞いていた。スピーカーにしていた。
四月の夕方は、日が落ちると急に冷える。彼の家の玄関先である。この人は上着を着ていない。私は着ている。三年前、彼が相原景の家の前でしゃがんでいたのと同じ姿勢で、彼は自分の家の前に座っていた。
「乙川くん」
彼女は、電話の向こうでページをめくった。
「覚えてます」
私は、少し息を吸った。
一人目とは違った。私は、その一言で、少し前のめりになった。前のめりになった自分が、少し嫌だった。私は、この人に「覚えている」と言ってほしかったのだと思う。それは、この人に対して公平な聞き方ではない。
「どんな人でした?」
「静かな人でした。あんまり喋らなくて。……でも、毎日投稿してました」
「見てました?」
「見てました。……三年間、毎日流れてきてたんで」
「どんな投稿でしたか」
彼女は、少し黙った。私は、その沈黙を横で聞いていた。三分ある。電話の向こうからは、息の音だけが聞こえた。三分黙るというのは、思い出そうとしている人の黙り方である。思い出せない人は、もっと早く諦める。この人は諦めなかった。諦めなかったのに、何も出てこなかった。
「……えっと」
「はい」
「なんだったかな」
彼女は、三分くらい考えた。
私たちは、待った。電話の向こうで、彼女が何かをめくる音がした。指が画面を弾く音が、三分のあいだに何十回も聞こえた。三年ぶんを遡っているのだと思う。遡っても、この人には何も出てこなかった。
「すみません」
めくる音が、そこで止まった。
「覚えてないです。……毎日上げてたのは、はっきり覚えてます」
彼女は、間を置いた。
「何を上げてたかは、一個も出てこないです」
「三年間、毎日見てたんですよね」
「見てました」
彼女は、少し声を落とした。
「でも」
彼女は、言い直した。
「流れてくるから見てただけです」
私は、その言葉を、たぶん一生忘れない。
「流れてくるから見てた」
「押したりはしなかったんで。……いいね、ゼロでしたよね」
「ゼロでした」
「そうですよね」
彼女は、また言い直した。
「押すようなやつじゃなかったんです」
私は、その言い方を聞き返した。
「押すようなやつじゃない、って」
「なんて言えばいいのかな」
彼女は、言葉を探した。二十秒くらいかかった。
「悪くないんです。変でもないんです。……ただ、押す理由が無かったんです」
彼女は、自分の言葉に少し驚いたようだった。
「毎日流れてきて、見て、次に行って。……それだけでした」
私は、その三つを頭の中で並べた。見て、次に行って、それだけ。私が三年間ノートに書いてきたのは、その反対のことだった。書くというのは、次に行かないということである。
ドパガキは、それまで一言も喋っていなかった。そこで、こう言った。
「オレも同じだ」
「え?」
「オレも、押さねえ」
彼は、自分の親指を見た。
「一日八時間見て、三年間で一回も押してない」
彼は、その指を止めたままにした。
「見て、次に行って、それだけだ。……だから、あんたを責めねえよ」
小西さんは、電話の向こうで、少し安心したようだった。そして、こう言った。
「あの」
「はい」
「乙川くん、何かあったんですか」
「わからないです。……三年前に、アカウントを消して、転校しました」
「そうなんですか」
彼女は、一度黙った。
「知らなかったです」
電話を切ったあと、私は彼に聞いた。
「あなた、覚えてるの?」
「何を」
「乙川くんの投稿」
彼は、少し黙った。そして、こう言った。
「三十四行」
「え?」
「一日目から、最後の日まで」
彼は、間を置いた。
「全部は無理だ。三年で千件以上あるからな」
彼は、指を一本立てた。百、という意味だった。この人が指で数えるとき、一本は一でも十でも百でもある。三年見ていると、どれなのかはだいたいわかる。わかるようになったのは、たぶん二年目からである。同じ人を三年見ていると、そういうものが読めるようになる。二人目の小西さんは、三年見ていて、一件も読めていなかった。
「でも、上位百件は言える」
私は、言葉に詰まった。
「言ってみて」
彼は、そこから喋りはじめた。三十分かかった。
一件目から、順に、百件である。彼は、一度も止まらなかった。日付も、時刻も、写っているものも言った。窓の外。電柱。屋根。空。同じものが百件並ぶ。並ぶのに、一件ずつ違う。雨の日と、晴れの日と、電柱に鳥が止まっている日がある。三分で集中が切れる人が、三十分、一度も詰まらずに喋り続けた。
私は、それを全部メモした。書きながら、私には一件も情景が浮かばなかった。窓の外、電柱、屋根、空。同じ四語が何度も出てくる。同じ四語で百件を書き分けられるということが、私にはわからなかった。
そして、途中で書くのをやめた。四十三件目である。
四十三件目は、こうだった。窓の外。電柱が一本。雨。二十一時十四分。彼はそこまで言って、次に行こうとした。私は、ペンを置いた。
「なんでやめた」
彼が聞いた。
「……疲れたから」
嘘だった。本当は、こう思ったからである。
二人目は、一件も覚えていなかった。
この人は、百件覚えている。
そして、この人は「同じだ」と言った。
私は、その夜、ノートに向かうまでに一時間かかった。書くことは決まっていた。書くと決まってしまうのが、嫌だった。
私は、ノートの百四件目に、こう書いた。
『二人目。小西さん。覚えている。内容は一つも出てこない。』
そして、こう足した。
『土場我輝は、百件言えた。』
四十三件までのメモは、破らずに挟んである。




