見て見ぬふり
十一月の頭。私の質問箱に、匿名の質問が届いた。『一年前のあの投稿、見ましたよね。』
それだけだった。
私はその文面を、たぶん四十回くらい読んだ。十七文字である。読むのに二秒もかからない。二秒を四十回で、八十秒である。八十秒あれば、私はこの一行を暗記できたはずだった。暗記していない。読み返すたびに、私は初めて読むように読んでいた。
一年前。高校一年の秋。
裏アカに、一人の女子生徒を晒す投稿が上がった。写真が三枚と、短い文章。内容はここに書かない。書きたくない。
その生徒は、二学期の終わりに転校した。私はそれを見た。
見て、スクロールした。それだけである。当時の私は風紀委員ではなかった。誰かに言う義務もなかった。実際、私が何かしたところで、投稿は消えなかったと思う。
そう思っている。思っていることと、事実は、別かもしれない。
「見せてみろ」
生徒会室で、私は質問の画面をドパガキに向けた。彼はいつも通り机に突っ伏していた。
「これ、どういう意味だと思う?」
「知らね」
「……そう」
「調べてほしいのか」
私は答えるまでに、少し時間がかかった。
「誰が送ってきたのか、知りたい」
「嘘つけ」
彼は顔を上げた。
私は少し驚いた。声の高さは、いつもと変わらない。変わらないのに、初めて聞こえる言い方だった。彼が私に対してその言い方をするのは、初めてだった。
「あんたが知りたいのは、自分がどうだったかだろ」
彼はこの日、「わかるよ」と言わなかった。
一度も言わなかった。それが何を意味するのか、そのときの私にはわからなかった。
「一つめ。送信者」
彼は質問箱の画面を三十秒見た。
「これは簡単だ。文体でも時刻でもない。質問箱の設置日でわかる」
「え?」
「あんた、質問箱を今年の四月に作ってる。一年前の話をしてくる人間は、あんたが四月に質問箱を作ったことを知ってる必要がある」
「それは、誰でも」
「誰でも見れる。でも、わざわざ半年待って送ってくる奴は限られる」
彼はスクロールした。
「で、この文面。『あの投稿』って言い方をしてる。説明してない。……説明しなくても通じると思ってる人間だ」
「つまり」
「当事者だよ。三雲だ」
私は、その名前を一年ぶりに聞いた。
「二つめ」
彼は私のほうを見た。
「あんた、あの投稿を見てる」
「……そうね」
「日付も出せる。去年の十月二十九日。深夜零時前後」
「なんでわかるの」
「あんた、あの晩の記録を消してない」
私は自分の指が冷たくなるのを感じた。
「委員会の日誌だよ。あんたが書いてる分。……十月三十日の日誌だけ、字が乱れてる」
「そんなの」
「あと、あんたはあの日から一週間、投稿してない。それまで週三回上げてた人間が、ぴたっと止まってる」
彼は淡々と続けた。
「三つめ、希望調査票」
「え」
「風紀委員の希望、あんた、去年の十一月一日に出してる」
私の呼吸が、たぶん一瞬止まった。
「投稿の三日後だ」
「決定打を言うぞ」
「……いい。もういい」
「言う」
彼は初めて、少しだけ強い声を出した。
「あんたが去年書いた志望理由、生徒会の資料に残ってる。オレは見た。……『見過ごさないため』って書いてある」
彼は私を見た。
「見過ごした人間しか、そんな書き方しねえよ」
私は、何も言えなかった。
いつも「私はやっぱり何も言えなかった」と書いてきたが、そのときのは種類が違った。言えないのではなく、言うべきことがなかった。
「わかるよ、って言わないのね」
私は、ようやくそれだけ言った。
「言わない」
彼は、画面を伏せた。
「なんで」
「わかんねえもん、オレは」
彼はスマホを取り出し、そして、そのまま伏せて置いた。
「オレは見て、スクロールして、翌週には忘れる。あんたは見て、スクロールして、一年覚えてる。……同じじゃねえよ」
三雲さんとは、電話で話した。
彼女は今、隣の県にいる。声は落ち着いていて、私が想像していたどの声とも違った。
「怒ってないです」
彼女は最初にそう言った。
「じゃあ、なんで」
「鎮目さんが風紀委員になったって聞いて」
彼女は少し黙った。
「三浦くんっている、一年の。あの子が教えてくれて。『先輩、すごい真面目にやってます』って」
私は返事ができなかった。
「それで、確認したくて」
「……何を」
「私のせいですか」
私は答えられなかった。
「あのとき見た人、たぶん何百人もいるんです。でも、そのうちの一人が、私のせいで人生変えてたら」
彼女は、そこで一度だけこちらを見た。
「それ、やめてほしいんです」
「え」
「私、誰かの人生の理由になりたくないんです」
電話のあと、私はしばらく生徒会室に座っていた。
ドパガキはまだいた。スマホを縦にして、いつもの姿勢に戻っていた。
「聞いてた?」
「聞いてない」
「……そう」
「償いでやってる仕事はな」
彼は画面を見たまま言った。
「償いにしかなんねえよ」
私はそれを、二回、頭の中で繰り返した。
「辞めろってこと?」
「言ってない。オレはなんも言ってない」
彼は立ち上がった。
「ただ、あんた、風紀委員けっこう向いてると思うぞ」
「……そう?」
「うん。理由がクソなだけで」
私は風紀委員を辞めなかった。理由は、その日から少し変わった。
三雲さんには、それを言っていない。言わないほうがいいと思ったからである。でも私はもう、日誌の字を乱さない。
その日の帰り道、彼は廊下でスマホを取り出した。
「うわ」
「今日は何」
「猫が寿司握ってる」
「またそれ」
「またこれ」
彼は十九分動かなかった。私は、その隣に立って待った。十九分を、私は数えていた。それまで私は、この人が止まると先に帰っていた。待つ理由が無かったからである。この日は、帰る理由のほうが無かった。廊下の窓から、十一月の日が斜めに入っていた。
初めて、先に帰らなかった。




