蜂谷とドパガキ 二
三月。吉住くんから連絡が来た。五冊目のノートを書いている、二年生である。
「相原先輩のことです」
市が、観光PRの動画を作ることになった。予算は三百万円である。制作は、蜂谷灯の会社が請けた。
「うちの高校の生徒を使うんです。……で、その中に、相原先輩が入ってます」
相原景は、三年生になっていた。
一年のときに二週間消えて、三か月家から出なかった生徒である。いまは、週に四回、学校に来ている。
数学の解説アカウントは、フォロワーが四百人になっていた。
「企画書、見ました」
吉住くんは、そのページを開いた。
「相原先輩のところに、こう書いてあります」
彼は読み上げた。
『不登校を経験し、独自の学習発信を通じて再び学校とつながった生徒。地域教育の象徴として。』
私は、その一行を二回聞いた。二回目で、息が止まった。不登校を経験し、独自の学習発信を通じて再び学校とつながった生徒。一つも嘘は書いていない。三年前の二週間も、家から出なかった三か月も、四百人のフォロワーも、全部事実である。事実だけを並べて、事実ではない形にすることができる。どこが嘘なのかは、読んだだけではわからない。
「断らないの?」
「断れないでいます。……先生も、市の人も、みんな『いい話だ』って言ってるんで」
蜂谷灯を呼んだのは、その週の土曜だった。九度目である。
彼女は、企画書を持ってきていた。付箋が、十枚以上ついていた。色が二種類ある。黄色が多くて、青が二枚だけだった。一度も直さずに納められる人が、直した跡を残したまま持ってきていた。
「同意は取ってます」
彼女は、最初にそう言った。
「本人と、保護者と、学校からです。書面です。……三か月かけました」
「やめろ」
ドパガキが言った。彼が誰かに「やめろ」と言うのを、私は初めて聞いた。
「理由を教えてください」
「あいつを、象徴にすんな」
「象徴になると、何が困りますか」
「戻れなくなる」
彼は、指を四本立てた。
「あいつ、週四回だ。……残り三回は、行ってない」
彼は、その手を開いた。
「象徴になったら、三回休んだときに、失敗したことになる」
蜂谷灯は、それを聞いて、少し黙った。
「そこは、考えました。……原稿に、こう入れてあります」
彼女は、企画書をめくった。付箋の一枚が、そこにあった。私は横からそれを見た。ページの下のほうに小さく入っていて、目を凝らさないと読めない。
『いまも、行けない日があります。』
私は、その付箋のところを覗き込んだ。
「入れたんですか」
「入れました。……市の人には、削れって言われました」
彼女は、その一行を指で押さえた。
「削らなかったです」
ドパガキが、少し止まった。
「……そうか」
彼は、初めて企画書に手を伸ばした。付箋の一枚を、指で起こした。
「削らなかったのか」
「削らなかったです。……予算、二十万減りました」
私たちは、相原景に会いに行った。三年ぶりに、彼の家の前に行った。
三年前と同じように、ドパガキは門の横のブロックに座った。そして、スマホを縦にした。
十分くらいして、玄関のドアが開いた。相原景が出てきた。三年前より、背が伸びていた。相変わらず痩せていた。
「先輩」
「日陰だから座ってただけだ」
ドパガキは、ブロックから動かなかった。
彼は、二階の窓のほうを指した。私はその窓を見上げた。三年前、私は二十分ここに立っていて、一度も見上げなかった。見上げれば見えたはずである。
「あれ、二階から見てました」
「PRの件」
私が言った。
「はい」
「断っていいのよ」
「断らないです」
「え?」
「出ます。……決めてます」
「なんで」
ドパガキが聞いた。
相原景は、少し黙った。玄関の敷居のところに立ったままだった。いまは、内側と外側の境目に立っている。中に戻ろうとも、外に出ようともしない。週に四回というのは、たぶんこういう立ち方のことである。
そして、こう言った。
「見てもらいたいんで」
「僕、三年間、見る側でした。窓から。あと、画面から」
彼は、その窓をもう一度見た。
「見る側は、悪くないです。……先輩がそう言ってくれたんで」
彼は、間を置いた。
「でも」
彼は、敷居から一歩出た。
「一回くらい、見られる側になってみたいんです」
ドパガキは、ブロックに座ったまま、何も言わなかった。十秒くらい、誰も何も言わなかった。
「そうか」
彼は、初めてブロックから腰を上げた。
「はい」
「じゃあ、いい」
彼は立ち上がった。膝の埃を、今回も払わなかった。
「オレ、止める理由が無くなった」
私たちは、その帰りに、蜂谷灯にもう一度会った。彼女は、駅前で待っていた。
「出るそうです」
私が言うと、彼女はうなずいた。
「聞きました。……本人から」
ドパガキが、一つだけ聞いた。
「蜂谷」
「はい」
「この案件、三年後に覚えてるか」
彼女は、即答した。
「覚えてます」
「予算も、日付も、原稿の一行も」
「全部覚えてます」
「あいつは忘れる」
「え?」
「相原は、三年後には忘れてる。……たぶん、『そんなこともあったな』くらいだ」
彼は、少し声を落とした。
「オレも忘れる。この案件のことも、あんたのことも、三年後には忘れてる」
彼は、初めて彼女を見た。
「あんただけ覚えてる」
蜂谷灯は、何も言わなかった。
「三年半で、何件やった」
「四百十二件です」
彼女は即答した。数える時間が、無かった。
「四百十二件、全部覚えてるんだよな」
「覚えてます」
「予算も、日付も、被写体の名前も」
「全部です」
彼は、一度言葉を切った。
「それ、しんどくねえの」
蜂谷灯が、初めて、少し下を向いた。九度会って、この人が下を向いたのは初めてである。目を伏せたことは一度あった。伏せるのと向くのは違う。下を向くと、髪が顔の横に落ちてくる。それを直さなかったのも、初めてだった。
「しんどいです」
三年半で、初めてだった。
「じゃあ、なんでやめないの」
私は、その付箋の枚数を数えていた。十二枚あった。
彼女は、しばらく答えなかった。企画書の付箋を、一枚だけ触った。
「やめたら」
彼女は、その一枚を剥がさなかった。指を置いて、そのまま押さえていた。剥がせば直せる。直せば市の人の言う通りになって、予算が二十万戻る。戻らないほうを、この人は選んだ。選んだ理由を、この人は誰にも説明していない。私も聞かなかった。
「覚えてる意味が、なくなるんで」
私たちは、そこで別れた。決着は、つかなかった。彼女は仕事を続け、彼は何もしないままである。
PR動画は、四月に公開された。相原景は、四十七秒のうち、九秒出ていた。
『いまも、行けない日があります。』
その一行は、残っていた。
「うわ」
帰り道、彼が言った。
「今度は」
「猫が」
彼は止めた。
「……いや、いい」
「何」
彼は、少し黙った。
「あいつ、四百十二件、全部覚えてんだよな」
彼は、指を折りかけて、やめた。
「オレ、九十九件、全部忘れてる」
「どっちがいいのかしら」
「知らね」
彼は、歩幅を変えずに続けた。
「でも」
彼は、一度だけこちらを見た。
「オレ、あの十七秒だけは忘れてねえ」




