灰谷と日下部の三年目
二月。灰谷透と日下部陸が、三年になっていた。
二月の寮は、電話をするときだけ廊下に出る。部屋は壁が薄い。廊下は寒くて、十分いると耳が痛くなる。私は一年で、この姿勢に慣れてしまった。慣れたことを、私はあまり良いことだと思っていない。
三月に卒業する。アカウントは、三年続いた。
「終わらせます」
灰谷くんが言った。私たちは、電話で話していた。
「消すの?」
「消さないです。止めます」
彼は、言い直した。
「二人で決めました」
三年間の記録は、こうである。一年目、二百四十万回。一本だけ。二年目、平均三万五千回。
三年目、平均五万一千回。
投稿数は、三年で四百七十本だった。三年で四百七十本なら、二日半に一本である。部活をやりながら、受験をしながら、二日半に一本を三年続けた。私はその数を最初に見たとき、多いとも少ないとも思わなかった。日数で割ってみて、初めて手が止まった。三年というのは、そういう割り方をして初めて出てくる長さである。
「三年目のほうが多いのね」
「多いです。……でも、二百四十万にはならなかったです」
彼は、少し間を置いた。
「一回もです」
「一つめ、推移」
ドパガキは、四百七十本のグラフを出した。
「一年目、めちゃくちゃだ。二百四十万が一本あって、あとは三千とか五千だ」
彼は、その一本の突起を指した。突起の下は、ほとんど地面だった。私には、四百六十九本が同じ高さの一本の線にしか見えなかった。一本だけが、紙の上まで伸びている。三年間の仕事がこの形に見えるというのは、たぶん本人には見せたくない絵である。
「二年目、安定してる。三万から四万。……三年目、四万から六万だ」
彼は、右のほうを指でなぞった。線が、ゆるく上がっていた。
「ゆっくり伸びてる」
「二つめ、カット尻」
「一年目の後半、〇.三秒だ。……で、二年目から〇.八秒」
彼は、三つの数を並べた。
「三年目、一.一秒だ」
「長くなってる」
「長くなってる」
彼は、その三つを線でつないだ。線は、上を向いていた。〇.三秒、〇.八秒、一.一秒。数字にすると差がわかる。実際の動画を三本続けて見ても、私にはその差が聞き分けられなかった。〇.八秒の違いは、目でも耳でも私には拾えない。拾えるようになった人が、三年かけて一人いた。〇.三秒から一.一秒である。三年かけて、〇.八秒だけ長くなった。
「待てるようになってる」
「三つめ、返信」
「一年目、日下部は深夜三時に返信してた。……二年目、二十二時までに全部返してる」
彼は、三年目のところで指を止めた。
「三年目」
彼は、その欄をこちらに向けた。一年で、五十二件しか無かった。
「返信が、週に一回だ」
「減ったの?」
「減った。……で、再生数は増えてる」
彼は、二本の線を上下に並べた。片方は下がり、片方は上がっていた。
「返信を減らして、数字が増えてる」
彼はスマホを置いた。
「三年で、あいつ、数字と切り離せるようになった」
「で、決定打」
「三年前の、二百四十万回の動画。……あれ、今日、上げ直されてる」
私は、それを見た。三年前に一度、私は同じ十五秒を見ている。あのとき何が映っていたかを、私は正直あまり覚えていなかった。今日の一本には、後ろで体を揺らしている人がいる。いる、と言われて見て、私はようやくそれが見えた。
三年前の映像である。だが、七カット増えていた。
日下部くんが踊る後ろで、カメラを持ったまま体を揺らしている灰谷くんが、七回映っていた。
そして、ラスト二秒。二人でカメラに手を伸ばして、画面が暗転した。
私は、その暗転を三年前に一度だけ見ている。佐倉ひかりのパソコンの中でである。あのとき、それは切り捨てられた側の映像だった。誰にも見られないまま、元データの中にだけ残っていたものである。三年経って、それが公開のほうに移った。移したのは、切った本人である。切った本人にしか、戻すことはできない。
「戻したのね」
「戻しました」
灰谷くんが言った。
「日下部が、自分で。……僕、言ってないです」
彼は、廊下の向こうで一度黙った。
「三年前の元データ、探してました。……佐倉先輩が持ってたんで、もらいました」
私は、その四千という数を見た。三年前の二百四十万を、私はノートに書いている。書いたときは、大きい数字だと思っていた。
再生数は、四千回だった。三年前の二百四十万回の、五百分の一である。
「四千か」
「四千です」
日下部くんが言った。
彼は、そのとき初めて電話に出た。声が、三年前より低かった。
「三年前は、二百四十万でした」
「うん」
「四千です」
彼は、言い切った。
「でも、こっちが本物です」
ドパガキは、しばらく黙っていた。
「日下部」
「はい」
「三年前、あんたは七カット消した」
「はい」
「今日、戻した」
「はい」
彼は、少し声を落とした。
「それで元通りじゃねえぞ」
電話の向こうが、静かになった。
「わかってます」
日下部くんが、はっきり言い切った。
「三年ですよね。……三年、あいつが映ってないやつが、二百四十万回見られてます」
彼は、間を置いた。
「戻したのは、今日の四千回だけです」
「うん」
ドパガキが、初めて画面を伏せた。
「わかってりゃいい」
彼は、二つの数字を並べて言った。
「三年前、あんた、わかってなかった」
「はい」
「いま、わかってる」
彼は、その二つのあいだに線を引くように指を動かした。
「それが三年だ」
アカウントは、三月に止まった。最後の投稿は、こうだった。
『三年やりました。止めます。消しません。』
三年前に、桑名さんと土井さんが書いたのと、ほとんど同じ文面だった。二人は、それを知らない。
「同じ文面ね」
「同じだな」
「見てたのかしら」
「見てねえと思う」
「じゃあ、なんで同じなの」
彼は少し考えた。三歩ぶんくらいである。
「止めるときに書けることが、そんなに無いんだよ」
「うわ」
「今度は」
「猫が二匹で寿司握ってる」
「前も言ってた」
「同じやつだ。……三年前のだ」
彼は、その画面をこちらに向けた。
「まだ二匹いる」
彼は十五分動かなかった。私は、暗転する二秒を、そのあいだ二回思い出した。二人でカメラに手を伸ばすところで、画面が暗くなる。手が二本、同時に近づいてくる。三年前、あの二秒は要らないと判断された。判断したのは十六歳で、判断は間違っていなかったと思う。間違っていなかった判断を三年後に取り消せるというのが、たぶんこの三年の中身だった。




