見る側の進路
十一月。土場我輝は、二十歳になった。
十一月のチェーン店は、自動ドアが開くたびに足元が冷える。奥の角の席は、その風がちょうど当たる位置にある。八度来て、私は毎回そこに座っている。座る場所を選べる立場ではないというのが、この八回の私の役どころだった。
何もしていない、という状態が、一年八か月続いていた。
蜂谷灯から連絡が来たのは、その週である。私にではなく、彼にだった。
『正式なオファーです。一度、時間をください』
私たちは、いつものチェーン店にいた。八度目である。
彼女は、書類を持ってきていた。クリアファイルに入っていた。角が、一つも折れていなかった。鞄から出すときも、指で挟まずに底を支えて出す。この人は紙をこういうふうに扱う。三年半、画面の中で〇.五度まで揃えてきた人の、紙の扱い方だった。四枚が、机の上でぴたりと揃って置かれた。
「うちで働きませんか」
書類は、四枚あった。業務内容。報酬。契約期間。守秘義務。
「月に二十五万です」
彼女は、二枚目を指した。
「業務は、見ることです」
「見る?」
私は聞き返した。
「うちの案件が、伸びるかどうかを見てもらいます。……作る前に、一本三十秒見て、これは伸びる、伸びない、を言うだけです」
彼女は、その一行を指でなぞった。
「一日、二十本くらいです。一時間で終わります」
「一時間で二十五万?」
「安いくらいです」
彼女は、その計算を紙に書いた。書くのに、十秒もかからなかった。私はその十秒で書かれた式を読んだ。二万かける、伸びない本数。掛け算そのものは私にも読める。読めるのに、これが人を雇う根拠になるという筋道が、私にはうまくわからなかった。
「うちの外注、一本作るのに二万かかります。伸びなかったら丸損です。……先に外せるなら、月に百万は浮きます」
私は、その計算を否定できなかった。そして、私は少し、彼にこれを受けてほしいと思った。
彼は二十歳で、何もしていなくて、親と暮らしていて、バイトを三回クビになっている。
これは、たぶん、彼の人生で最初で最後のまともなオファーだった。私は、そう思った自分を、あとで何度か思い出すことになる。まともという言葉を、私はそのとき何の疑いもなく使った。月に二十五万入って、契約書があって、守秘義務がある。そういうものをまともと呼ぶ習慣を、私は十九年かけて身につけている。身につけていない人が目の前にいることを、私はそのとき忘れていた。
「あんたさ」
彼は、書類を一枚も持ち上げなかった。
「はい」
「一個、聞いていい」
「どうぞ」
「あんた、最後にただ見た動画って、いつ」
蜂谷灯は、その質問の意味が、最初はわからなかったようだった。
「ただ、というのは」
「仕事じゃなくて」
彼は、書類に手を触れないまま続けた。
「分析でもなくて。……ただ見ただけの動画だ」
彼女は、コップを持った。
そして、しばらく答えなかった。私は、その沈黙を数えた。二十秒あった。二十秒というのは、この人にとって異常な長さである。三年半ぶんの案件を、この人は日付ごと即答できる。答えられない質問が来たのは、私が見てきた八回のうち、二度目だった。一度目は去年、払ってもらえたかと聞かれたときである。
「……覚えてないです」
「いつから?」
「たぶん、三年半前です。……あの教室の動画を消してからは、全部、分析です」
彼女は、コップを置いた。
「一日十時間見ますけど、一本も、ただ見てないです」
「オレ、今日見た」
「え?」
「今日、朝に一本、ただ見た。……猫が寿司握ってるやつだ」
彼は、指を三本立てた。三年ぶん、という意味である。私は、その三本を見ていた。
「三年、毎日見てる。……分析してない」
彼は、書類を返した。四枚とも、角は折れていなかった。
「受けねえよ」
返すのに、一秒もかからなかった。私は、その一秒のあいだに何も言えなかった。
「理由、聞いていいですか」
「もったいないと思ってる」
彼は、そのファイルを彼女のほうへ押した。
「月二十五万は、オレには一生無理な金だ。……オレ、たぶん、この先も稼げない」
彼は、コップから一度手を離した。
「でも」
彼は、その四枚をもう一度見た。二十五万という数字が、二枚目の真ん中にあった。
「金にした瞬間に、見方が変わる」
「変わりますよ」
蜂谷灯は、あっさり認めた。
「変わります。私が変わりました」
彼女は、その四枚を鞄に入れた。
「三年半前は、伸びない動画も見てました。いまは、三秒で外します。……そのほうが速いんで」
「オレが変わったらな」
「はい」
彼は、一度だけ目を上げた。
「あの十七秒を探せなくなる」
蜂谷灯は、書類を鞄にしまった。彼女は、その日、一度も食い下がらなかった。
「わかりました。……またご連絡します」
「毎回それを言うわね」
私が言うと、彼女は少し笑った。
「毎回言います。……三年後に受けるかもしれないんで」
帰り道、私はその四枚のことをまだ考えていた。
「本当によかったの?」
「よくねえよ」
彼は即答した。
「え」
「月二十五万だぞ。……オレ、いま、月ゼロ円だ」
彼は、歩幅を変えずに続けた。
「じゃあ」
「よくねえ」
彼は繰り返した。
「でも、受けねえ」
彼は、一度だけこちらを見た。
「よくないことと、やらないことは、両立する」
「あなた、この先どうするの」
聞いてから、それが私の質問ではないと思った。でも、聞いた。
「知らね。……見てる」
「それだけ?」
「それだけだ」
彼は、また前を向いた。
「見てるうちに、なんか来ると思う。……三年間、そうだったからな」
「うわ」
「今度は」
「猫が働いてる」
「また駅長?」
「違う。……倉庫にいる」
「倉庫?」
「ネズミを追い払う仕事だ。……十二年やってるらしい」
「給料は」
「猫缶と、寝る場所だ」
彼は、その画面をこちらに向けた。
「辞める気ねえらしい」
彼は十七分動かなかった。私は、月二十五万という数字を、そのあいだ一度も口に出さなかった。口に出せば、それは私の意見になる。私はこの人に働いてほしいと思っていて、その理由の半分くらいは、たぶん私自身が安心したいからだった。安心したいから人に何かを勧めるのは、あまり良いことではない。良くないと気づいたので、私は黙っていた。




