大学の裏アカ
十月。私の大学に、裏アカがあった。
十月の講義棟は、冷房と暖房のあいだの時期で、どちらも入っていない。窓を開けると寒く、閉めると暑い。三十人ほどの教室で、窓際の三人だけが上着を着ている。私はその三人のうちの一人だった。
学部の裏アカである。法学部は、一学年で四百人いる。四年で千六百人。大学全体で、九千人である。
十月十二日、一つの投稿が上がった。内容は、一人の学生についてのものだった。書かない。書けない種類のものである。
三日で、二千回回った。
私は、それを調べようとした。一人でである。
彼に連絡しなかった。連絡しない理由を、私はそのとき自分に説明しなかった。説明できるようになったのは、三日経ってからである。三年間、私は持っていく側だった。持っていけば、四つ並ぶ。並んだものを私が書く。その順番を、一度も疑ったことがない。疑わなかったものを、一度自分でやってみたかった。それだけの話である。
一つめ、時刻。
投稿は、十月十二日、二十一時四十分。
私はまず、そこから始めた。ノートを開いて、いつも通りに書いた。三年間、私はこの欄から書きはじめている。時刻を書けば、そこから何かが出るはずだった。書いてしばらく見ていても、今回は何も浮かばない。浮かばないという状態が、私にはよくわからなかった。
高校のときは、これで何かが出た。深夜一時なら、寝ていない人間。十七時なら、帰宅直後。
だが二十一時四十分は、九千人のうち、たぶん七千人が起きている。
何も絞れなかった。私は、その一行の下に、線を引かなかった。
二つめ、写真。
投稿には、写真が一枚ついていた。高校のときなら、ここで場所が割れた。
チャイムが聞こえる。制服が映る。校舎の窓の数が数えられる。
だが、大学には制服がない。チャイムがない。校舎は十四棟ある。写真に映っていたのは、どこにでもある廊下だった。
私は、その廊下を探して、二日で三棟回った。三棟とも、同じ廊下だった。同じ色の床材で、同じ間隔の蛍光灯で、同じ幅である。大学というのは、そういうふうに建っている。高校の校舎は一棟しかなかったので、窓の数を数えれば場所が出た。十四棟が同じ設計で建っているところでは、数えても何も出ない。数えること自体が、意味を持たなかった。
三つめ、文体。
私は、投稿の文体を分析しようとした。句読点の位置。改行。誤変換。
私は、それを二時間やった。句読点の位置を数えて、改行の癖を並べて、誤変換を拾った。拾えたものはある。拾えても、それが誰のものかがわからない。高校のときは、拾った瞬間に顔が浮かんだ。今回は、二時間かけても、誰の癖なのか私にはわからなかった。
そして、気づいた。
比べる相手がいない。
高校のときは、四百八十人だった。全員の投稿を見ることができた。九千人の文体は、比べられない。
四つめ、人間関係。
私は、その学生のことを、何も知らなかった。
同じ学部の二年生である。私は、名前も顔も知らなかった。
高校のときは、四百八十人だった。全員の顔と名前が一致していた。
大学では、同じ学部の同じ学年で、私が名前を知っているのは三十人くらいである。
私は、三日かけて、何も出せなかった。そして、四日目に、彼に連絡しようとして、やめた。
指は、通話のところまで行って、止まった。押せば、たぶん三十分で四つ出る。出ないかもしれないが、少なくとも私よりは早い。押さなかったのは、意地ではないと思う。押した瞬間に、これが九十八件目になるからだった。九十七件、私は同じことをしてきた。同じことを九十八回やるのが正しいのかどうかを、そのとき初めて考えた。
代わりに、私は本人に会いに行った。
萩野さんという、二年生だった。
私は、彼女と話したことがなかった。同じ講義に出ていたことは、あとで知った。
「風紀委員だったんです」
私はそう言った。
「え?」
「高校のとき。……三年間、こういうのを調べてました」
私は、そのノートを鞄から出しかけて、やめた。
「今回、調べたんですけど、わかりませんでした」
萩野さんは、少し驚いた顔をした。
「調べてくれたんですか」
「勝手にです。……すみません」
「いえ」
彼女は、机の端を指で押さえた。
「……ありがとうございます」
「高校のときは、わかったんです」
私は、指を四つ折りながら言った。
「四百八十人しかいなかったんで。……投稿の時刻と、写真の背景と、文体で、だいたい割れました」
私は、その四つ目を折れなかった。
「ここは、九千人います。……匿名が、本当に匿名なんです」
萩野さんは、しばらく黙っていた。
「それ、いいことですか」
彼女は、初めてこちらを見た。私は、答えられなかった。高校のとき、私は「匿名は成立しない」と思っていた。
四百八十人の中では、誰かが必ず特定できた。裏アカは、四回代替わりしても、中の人は割れた。
九千人の中では、割れない。
「あの」
萩野さんが言った。
「はい」
「わからなかったって、言いに来てくれたんですか」
「そうです」
「なんでですか」
私は、少し考えた。そして、こう言った。
「誰が書いたかは、わかりませんでした」
私は、初めて彼女の顔をまっすぐ見た。
「でも、あなたが誰かは、私が知ってます」
萩野さんは、それを聞いて、少し笑った。
「変な人ですね」
「よく言われます」
私は、言い直した。
「私じゃなくて、知り合いが」
投稿は、二週間で消えた。誰が消したのかも、わからなかった。萩野さんは、いまも同じ学部にいる。
いまは、たまに話す。
私は、その夜、彼に電話をかけた。
「解けなかった」
「そうか」
「九千人だと、無理だった」
「無理だろうな」
彼は、少し間を置いた。
「あんたのやり方は、顔と名前が一致する範囲でしか効かねえ」
「あなたのやり方は?」
彼は、少し黙った。
「オレも無理だ。……オレのは、同じアプリを同じくらい見てる相手にしか効かねえ」
彼は、間を置いた。
「九千人いたら、見てるもんがばらける」
「じゃあ、私たち、高校でしか通用しなかったのね」
「そうだな」
そして、こう付け足した。
「でも、あんた」
「うん」
「会いに行っただろ」
「行った」
「オレ、それはできねえ」
彼は、少し笑ったようだった。
「三分で切れるからな」
私は、その夜、ノートに書いた。九十八件目である。結論の欄には、こう書いた。
『未解決。ただし、萩野さんと話した。』
三年間で、結論の欄に「ただし」と書いたのは初めてである。未解決と書いた欄は、これで二つ目になった。二つとも、私が書いた。前の一つは彼が解けなかった件で、これは私が解けなかった件である。解けなかった件が二つ並ぶノートを、私は思っていたより悪くないと思った。




