↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
104/142

大学の裏アカ

 十月。私の大学に、裏アカがあった。

 十月の講義棟は、冷房と暖房のあいだの時期で、どちらも入っていない。窓を開けると寒く、閉めると暑い。三十人ほどの教室で、窓際の三人だけが上着を着ている。私はその三人のうちの一人だった。

 学部の裏アカである。法学部は、一学年で四百人いる。四年で千六百人。大学全体で、九千人である。


 十月十二日、一つの投稿が上がった。内容は、一人の学生についてのものだった。書かない。書けない種類のものである。

 三日で、二千回回った。


 私は、それを調べようとした。一人でである。

 彼に連絡しなかった。連絡しない理由を、私はそのとき自分に説明しなかった。説明できるようになったのは、三日経ってからである。三年間、私は持っていく側だった。持っていけば、四つ並ぶ。並んだものを私が書く。その順番を、一度も疑ったことがない。疑わなかったものを、一度自分でやってみたかった。それだけの話である。


 一つめ、時刻。

 投稿は、十月十二日、二十一時四十分。

 私はまず、そこから始めた。ノートを開いて、いつも通りに書いた。三年間、私はこの欄から書きはじめている。時刻を書けば、そこから何かが出るはずだった。書いてしばらく見ていても、今回は何も浮かばない。浮かばないという状態が、私にはよくわからなかった。

 高校のときは、これで何かが出た。深夜一時なら、寝ていない人間。十七時なら、帰宅直後。

 だが二十一時四十分は、九千人のうち、たぶん七千人が起きている。

 何も絞れなかった。私は、その一行の下に、線を引かなかった。


 二つめ、写真。

 投稿には、写真が一枚ついていた。高校のときなら、ここで場所が割れた。

 チャイムが聞こえる。制服が映る。校舎の窓の数が数えられる。

 だが、大学には制服がない。チャイムがない。校舎は十四棟ある。写真に映っていたのは、どこにでもある廊下だった。

 私は、その廊下を探して、二日で三棟回った。三棟とも、同じ廊下だった。同じ色の床材で、同じ間隔の蛍光灯で、同じ幅である。大学というのは、そういうふうに建っている。高校の校舎は一棟しかなかったので、窓の数を数えれば場所が出た。十四棟が同じ設計で建っているところでは、数えても何も出ない。数えること自体が、意味を持たなかった。


 三つめ、文体。

 私は、投稿の文体を分析しようとした。句読点の位置。改行。誤変換。

 私は、それを二時間やった。句読点の位置を数えて、改行の癖を並べて、誤変換を拾った。拾えたものはある。拾えても、それが誰のものかがわからない。高校のときは、拾った瞬間に顔が浮かんだ。今回は、二時間かけても、誰の癖なのか私にはわからなかった。

 そして、気づいた。

 比べる相手がいない。

 高校のときは、四百八十人だった。全員の投稿を見ることができた。九千人の文体は、比べられない。


 四つめ、人間関係。

 私は、その学生のことを、何も知らなかった。

 同じ学部の二年生である。私は、名前も顔も知らなかった。

 高校のときは、四百八十人だった。全員の顔と名前が一致していた。

 大学では、同じ学部の同じ学年で、私が名前を知っているのは三十人くらいである。


 私は、三日かけて、何も出せなかった。そして、四日目に、彼に連絡しようとして、やめた。

 指は、通話のところまで行って、止まった。押せば、たぶん三十分で四つ出る。出ないかもしれないが、少なくとも私よりは早い。押さなかったのは、意地ではないと思う。押した瞬間に、これが九十八件目になるからだった。九十七件、私は同じことをしてきた。同じことを九十八回やるのが正しいのかどうかを、そのとき初めて考えた。


 代わりに、私は本人に会いに行った。


 萩野さんという、二年生だった。

 私は、彼女と話したことがなかった。同じ講義に出ていたことは、あとで知った。

「風紀委員だったんです」

 私はそう言った。

「え?」

「高校のとき。……三年間、こういうのを調べてました」

 私は、そのノートを鞄から出しかけて、やめた。

「今回、調べたんですけど、わかりませんでした」


 萩野さんは、少し驚いた顔をした。

「調べてくれたんですか」

「勝手にです。……すみません」

「いえ」

 彼女は、机の端を指で押さえた。

「……ありがとうございます」


「高校のときは、わかったんです」

 私は、指を四つ折りながら言った。

「四百八十人しかいなかったんで。……投稿の時刻と、写真の背景と、文体で、だいたい割れました」

 私は、その四つ目を折れなかった。

「ここは、九千人います。……匿名が、本当に匿名なんです」


 萩野さんは、しばらく黙っていた。

「それ、いいことですか」

 彼女は、初めてこちらを見た。私は、答えられなかった。高校のとき、私は「匿名は成立しない」と思っていた。

 四百八十人の中では、誰かが必ず特定できた。裏アカは、四回代替わりしても、中の人は割れた。

 九千人の中では、割れない。


「あの」

 萩野さんが言った。

「はい」

「わからなかったって、言いに来てくれたんですか」

「そうです」

「なんでですか」

 私は、少し考えた。そして、こう言った。

「誰が書いたかは、わかりませんでした」

 私は、初めて彼女の顔をまっすぐ見た。

「でも、あなたが誰かは、私が知ってます」


 萩野さんは、それを聞いて、少し笑った。

「変な人ですね」

「よく言われます」

 私は、言い直した。

「私じゃなくて、知り合いが」


 投稿は、二週間で消えた。誰が消したのかも、わからなかった。萩野さんは、いまも同じ学部にいる。

 いまは、たまに話す。


 私は、その夜、彼に電話をかけた。

「解けなかった」

「そうか」

「九千人だと、無理だった」

「無理だろうな」

 彼は、少し間を置いた。

「あんたのやり方は、顔と名前が一致する範囲でしか効かねえ」

「あなたのやり方は?」

 彼は、少し黙った。

「オレも無理だ。……オレのは、同じアプリを同じくらい見てる相手にしか効かねえ」

 彼は、間を置いた。

「九千人いたら、見てるもんがばらける」


「じゃあ、私たち、高校でしか通用しなかったのね」

「そうだな」

 そして、こう付け足した。

「でも、あんた」

「うん」

「会いに行っただろ」

「行った」

「オレ、それはできねえ」

 彼は、少し笑ったようだった。

「三分で切れるからな」


 私は、その夜、ノートに書いた。九十八件目である。結論の欄には、こう書いた。

『未解決。ただし、萩野さんと話した。』

 三年間で、結論の欄に「ただし」と書いたのは初めてである。未解決と書いた欄は、これで二つ目になった。二つとも、私が書いた。前の一つは彼が解けなかった件で、これは私が解けなかった件である。解けなかった件が二つ並ぶノートを、私は思っていたより悪くないと思った。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。