設計できないもの
九月。蜂谷灯が、失敗した。
九月の瀬々良木は、まだ夏である。県外はもう秋の匂いがしていて、こちらだけ蝉が鳴いている。二時間の差で、季節が半月ずれる。確かめる必要のないことばかり、私はよく確かめている。
彼女自身が、そう言った。
案件は、市内の自転車販売店だった。
三十秒の動画を五本。予算は四十万。目標は合計五十万回である。彼女は、いつも通りに作った。
冒頭〇.四秒でズームイン。カット尻〇.二秒。離脱直前で切る。五本の合計は、四十七万回だった。
目標の九十四%である。
「失敗?」
「失敗です」
「九十四%でしょう」
「目標は達成してないです。……でも、そこじゃないです」
彼女は、三本目を再生した。
「三本目の背景に、人が映ってるんです」
私は、その三本目を見た。駐輪場である。自転車が並んでいる。
その奥に、六十代くらいの男性が、自転車を一台ずつ整理していた。
四秒である。私は、一回目にはそれを見ていなかった。二回目に、やっと見えた。一回目に見ていたのは、手前の自転車と、そこに乗るテロップである。画面はそちらに寄せて作ってあって、私はきちんとそちらを見た。設計通りに見た人間には、奥の四秒は見えない。設計を外れて見た人間だけが、そこを見つけた。
「これが」
「これが、切り抜かれました。……切り抜きが、三百二十万回です」
「本編の七倍じゃない」
「七倍です」
彼女は、二つの数字を並べて置いた。
「私が作った四十七万回より、私が作ってない四秒のほうが、七倍伸びました」
「一つめ、なぜ伸びたか」
ドパガキは、その四秒を見た。七回見た。〇.五倍速で、である。
「このおっさん、自転車を、全部同じ向きに直してる」
「はい」
「で、ハンドルの角度まで揃えてる」
彼は、三台ぶんを指でなぞった。三台とも、同じ角度で止まっていた。
「四秒で、三台やってる。……手つきが速い」
「二つめ、視線」
「このおっさん、カメラを見てない」
「はい」
「気づいてない。……で、四秒間、一回も止まってない」
彼は、その四秒をコマ送りした。動きが、一度も途切れなかった。
「見られてることを知らない人間の動きだ」
「三つめ、コメント」
彼は、切り抜きのコメント欄を見た。
「三百二十万回で、コメントが四万件だ」
「多いわね」
「多い。……で、内容がほとんど同じだ」
彼は、その一文を読み上げた。
「『こういう人がいるから成り立ってる』」
彼は、その分類を出した。三万件が、同じことを違う言い方で書いている。書いた人たちは、たぶん自分が一人でそれを思ったつもりでいる。同じ四秒を見て、同じところで同じことを思う人が三万人いた。設計しなければ揃わないと思っていたものが、設計しないほうが揃っていた。
「四万件のうち、三万件がこの意味のことを書いてる」
「決定打」
「蜂谷。あんた、この四秒、カットするつもりだっただろ」
彼女は、うなずいた。
「するつもりでした。……背景に人が映ってるのは、普通は消します。トリミングするか、ぼかします」
「なんでしなかった」
彼女は、少し黙った。
「納期でした」
彼女は、初めて目を伏せた。
「四本目と五本目を先にやってて、三本目が最後で、時間がなかったんです。……手を抜いたんです」
私は、少し笑いそうになった。
笑うところではないと、また思った。この一年で、何度もそう思っている。手を抜いたところが七倍伸びた、というのは話としては痛快である。痛快に聞こえるのは、私がこの人の側にいないからだった。三年半、一秒単位で設計してきた人間にとって、これは自分の仕事の全部を疑わせる出来事である。笑える立場にいるのは、外側だけだった。
「で、それが三百二十万回か」
「はい」
「そのおっさん、いまどうしてんの」
「有名になりました。取材が来て、テレビに出て。……駐輪場に人が来るようになりました」
彼女は、少し声を落とした。
「本人は、困ってます。……でも、少し嬉しそうです」
「じゃあ、成功してんだろ」
「してないです」
彼女は即答した。
「なんで」
「私が設計してないからです」
彼は、スマホを置いた。
「あんたさ」
「はい」
「三年半、設計したもんだけで食ってきたんだよな」
「はい」
「で、今回、設計しなかったところが七倍伸びた」
「はい」
彼は、その四秒をもう一度流した。
「それが怖いんだろ」
蜂谷灯は、答えなかった。
「あんた、偶然が怖いんだよ」
彼は、指を折りながら数えた。
「設計できるものは、全部設計する。カットも、テロップも、サムネの視線も、〇.五度まで」
彼は、折る指がなくなった。
「で、設計できないものが一個だけある」
彼は、手を開いた。
「偶然だ」
「私、偶然を排除する仕事です」
「知ってる」
彼は、言い直した。
「排除しきったら、あんたの仕事は要らなくなるぞ」
「え?」
「全部設計できるなら、誰がやっても同じだろ」
彼は、その四秒を止めた。
「あんたが必要なのは、偶然が残ってるからだ」
蜂谷灯は、しばらく黙っていた。そして、こう言った。
「その理屈、初めて聞きました」
「そうか」
「はい」
彼女は、ノートパソコンを閉じた。
「三年半、誰にも言われなかったです」
三本目の動画は、いまも上がっている。切り抜きも残っている。自転車販売店の売り上げは、二割上がったそうである。
蜂谷灯は、この案件を「実績」に載せなかった。
「載せないの?」
私が聞くと、彼女は首を振った。
「載せられないです。……私がやってないんで」
「うわ」
帰り道、彼が言った。
「今度は」
「猫が背景に映ってる」
「本編は?」
「人が喋ってる」
「再生数は」
「本編、二千回」
彼は、二つ目の数字を出した。
「猫の切り抜き、九百万回」
彼は十四分動かなかった。私は、二回目にやっと見えた四秒のことを、そのあいだ考えていた。あの人は、見られていることを知らずに自転車を直していた。知らないから、四秒間、手が止まらなかった。止まらない手を三百二十万人が見た。見られたあとのあの人は、もう知っている。知ってしまった人の手は、たぶん、もう同じようには動かない。




