蜂谷の依頼
八月。蜂谷灯が、依頼に来た。
八月の瀬々良木は、駅からチェーン店まで七分で汗をかく。店に入ると、今度は寒い。私はいつも上着を鞄に入れて帰省する。八月に上着を持ち歩く人間を、私は自分以外に見たことがない。
私たちは、いつものチェーン店にいた。七度目である。
彼女は、席に着いてから、二分くらい何も言わなかった。ノートパソコンを出さなかった。それが、いつもと違った。六度、この人と同じ席に着いている。六度とも、座る前か座ると同時にパソコンが開いた。開いた画面が、この人の手元の場所である。それが無いと両手の置き場が決まらないらしく、二分のあいだに三回置き直していた。
そして、こう言った。
「依頼です」
「受けません」
私は反射的に言った。
「聞いてからでいいです」
彼女は、両手を膝に置いた。
「動画を、一本探してほしいんです」
「なんの」
ドパガキが聞いた。彼女は、少し黙った。
「私のです」
「三年前のやつです。教室の。二分四十秒の」
彼女は、コップを引き寄せた。
「私、去年、あなたに『消しておいてください』って言いました」
「言ったな」
「消しましたか」
彼は、答えなかった。
「探してほしいのは」
「それです」
彼女は、コップから手を離さなかった。
「消したの、あなたでしょう」
「私が消しました。三年前に。……でも、バックアップも消しました」
彼女は、指を三つ折った。元データ、端末、クラウド。三つ数えるのに、この人は一秒もかけなかった。三年前に自分がどこを消したかを、指三本ぶん正確に覚えている。私は、去年の秋に自分が何を消したかも、もうわからない。
「一週間待って、四人しか見なかったから、全部消しました。……元データも、端末からも、クラウドからも」
「探せねえよ」
ドパガキは、画面から目を上げた。
「探せないですか」
「消えたもんは、探せない。……オレ、三年間、探して見つからねえもんがある」
「知ってます」
彼女は、初めてこちらを見た。
「猫のやつでしょう」
「なんで欲しくなったの」
蜂谷灯は、コップを両手で持っていた。そして、しばらく答えなかった。
「作りたいものが」
彼女は、そのコップを置いた。
「思い出せなくなったんです」
「え?」
「仕事は、来ます。毎月、来ます。今月は十一件です」
彼女は、その十一を指で作らなかった。
「全部できます。何を作れば伸びるかは、全部わかります」
彼女は、ストローの紙を細く折った。
「で、先月。クライアントに聞かれたんです。『蜂谷さんは、何を作りたいんですか』って」
彼女は、コップに一度触った。
「答えられなかったです」
「三年前は、答えられたんだよな」
「答えられました。教室でした」
彼女は、窓のほうを見た。八月の夕方で、光の角度が斜めだった。チェーン店の窓は大きくて、四時を過ぎると床まで光が入る。三年前の教室も、たぶんこういう時間だった。この人が窓を見たのは外を見たかったからではなく、光の角度を確かめたかったからだと思う。確かめて、何も言わずに視線を戻した。
「夕方の、誰もいない教室です。カットしないで、二分四十秒。……あれが作りたかったんです」
彼女は、視線を戻した。
「いま、それがどういう感じだったか、思い出せないんです」
「あんた」
「はい」
「三年で一つも忘れてねえって言ったよな」
「言いました」
「数字は覚えてるよな」
「覚えてます。……十一回も、四百七十万回も、百二十万回も。全部言えます」
彼は、初めて彼女を見た。
「じゃあ、これだけ言う」
彼は、テーブルに肘をついた。
「あんた、忘れてんじゃねえよ」
彼女が、顔を上げた。
「全部覚えてる。数字も、日付も、案件も」
彼は、一度言葉を切った。
「作りたかったもんだけ、忘れてんだよ」
蜂谷灯は、何も言わなかった。彼女は、コップを見ていた。長い沈黙があった。店の音楽が、一曲分終わった。
そして、ドパガキが、スマホを出した。彼は、それを机の上に置いて、こちらに向けた。再生ボタンを押した。
夕方の教室が、映った。私は、その画面を最後まで見た。二度目である。一度目は去年の八月で、あのときは何が映っているのかを探しながら見た。今日は、探さずに見た。探さないで見ると、映っているものは机と窓と黒板しかない。それ以外のものを、私は一度目に勝手に探していた。
窓から光が入っている。机が並んでいる。黒板に、消し忘れた文字が残っている。
音楽はない。テロップもない。カットは一つもない。私は、切れ目を探しながら見た。二分四十秒のあいだ、切れ目はどこにも見えなかった。切っていないというのは、そういうことである。言われて探して、無いことがわかるまでに二分四十秒かかった。
二分四十秒、カメラは動かなかった。チェーン店の机の上で、その二分四十秒が流れた。周りは普通に混んでいて、隣の席の話し声が入る。それでも、誰も画面を止めなかった。私はもう一度、机の上の筆箱と、黒板の途中で切れた数式を見た。二度目に見ると、窓の外に電線が一本通っているのがわかった。一度目には見ていなかった。
蜂谷灯は、それを最後まで見た。一度も画面から目を離さなかった。去年と、同じだった。
再生が終わって、彼女は言った。
「消してないんですね」
「消してない」
「頼みましたよね」
「頼まれた」
「なんで消さなかったんですか」
彼は、少し黙った。
「四人が見てるからだ」
彼は、その画面を伏せなかった。
「あんたが消していいのは、あんたのぶんだけだ。……四人のぶんは、あんたのじゃねえ」
蜂谷灯は、それを聞いて、しばらく動かなかった。そして、こう言った。
「五人ですね」
「え?」
「あなたも見ました。……二回。去年と、今日で」
「三回だ」
彼は、指を三本立てた。
「去年、二回見た」
彼女は、初めて笑った。私は、この人が笑うのを、二度目に見た。
彼女は、その動画を受け取らなかった。
「持っててください」
「いいの?」
「いいです」
彼女は、鞄を持って立った。
「私が持ってると、また消すんで」
彼女は、会計を済ませて、帰っていった。去り際に、一言だけ言った。
「土場さん」
「うん」
「私、来月、案件を一件断ります」
彼女は、ドアのところで振り返った。
「三年で、初めてです」
帰り道、私はそれを口に出した。
「断ったのかしら」
「知らね」
「あなた、あの動画、いつからスマホに入れてたの」
「去年から」
「毎日見てるの?」
「見てない。……三回だ」
彼は、歩幅を変えずに続けた。
「三回とも、あいつの前で見てる」
「うわ」
「今度は」
「猫が二分四十秒寝てる」
「前も言ってた」
「同じやつだ」
「再生数は」
彼は、その数字を読み上げた。
「二十二回」
彼は、少し口の端を上げた。
「三回増えてる」
彼は十九分動かなかった。私は、二十二という数を考えていた。十一が二十二になるのに三年かかっている。増えた十一のうち、三回はこの人である。残りの八回が誰なのかは、たぶん誰も数えていない。数えていないほうが、この場合はいい。あの人はもう、数えるのをやめるべきだった。




