第44話「渓谷に眠る翼」
朝を迎えたアルナ村は、少し騒がしかった。
夜明けとともに鶏が鳴き、羊が鳴き、子どもたちが走り回り、大人たちは早くも作業に取りかかっている。
仮小屋の屋根に木槌を振るう音。
水桶を運ぶ足音。
朝食の鍋から立ち上る湯気。
そこに、昨日までの旅の疲れを忘れさせるような明るさがあった。
ノアは、村外れに停められた〈アヴィス・ライナー〉のそばで荷物を整えていた。
昨夜は久しぶりによく眠れた。
身体の重さが完全に消えたわけではない。
リヴァリアで受けた疲労も、アーク・ギガントとの同調による負荷も、まだ体の奥に残っている。
けれど、胸の奥に沈んでいた冷たいものは、少しだけ形を変えていた。
帰ってくる。
そう約束をした。
ただ戦うためではなく。
ただ守るためでもなく。
またここへ戻るために。
それだけで、足元に一本の道ができたような気がした。
「ノアー!」
声がして振り向くと、ミリアが両手に包みを抱えて駆けてきた。
赤栗色の髪が朝日に跳ねている。
「みんながこれ持ってけって。干し肉と焼き菓子と、あとなんか薬草っぽいやつ」
「薬草っぽいやつ?」
「怪我した時に飲む、苦いやつ」
「説明が雑だね」
「大丈夫。苦いからちゃんと効く」
「苦さが効き目の基準なんだ……」
ミリアは荷袋に包みを詰め込みながら、ふふんと胸を張った。
「旅には苦い薬と甘いお菓子が必要なの」
「その並びは少し分かる気がする」
「でしょ」
二人がそんなやり取りをしていると、杖の音が近づいてきた。
とん、とん、と地面を叩く音。
ガラムだった。
「もう行くのか」
「はい。アークの修理も気になりますし」
ノアが答えると、ガラムはふんと鼻を鳴らした。
「生真面目なやつだ。少しくらい寝坊していけばいいものを」
「お爺ちゃん、昨日は『若いもんは朝から働け』って言ってたじゃん」
「それはお前がすぐ寝坊するからだ」
「それはお布団がふかふかすぎるのが悪いよ」
「言い訳をするな!」
ガラムはいつものようにフンと鼻を鳴らすと、ノアの前に立った。
その表情は、いつものように渋い。
けれど、その目にはどこか迷いがあった。
「二人とも。行く前に、少し寄っていけ」
ノアは首を傾げる。
「寄る?」
ガラムは村の西側、山裾の方角を杖で示した。
「この村の外れに渓谷があるだろう。ここよりさらに西に行ったところだ」
「うん。子どものころ、近づくなって何回も言われたところ」
ミリアが答える。
「実際に何度も近づいて怒られたところでもあるな」
「昔の話だよ!」
「去年またやったばかりだろうが」
「昔の話!」
ノアは苦笑した。
ガラムはそんなミリアを一睨みしてから、話を戻す。
「あの渓谷の岩肌で、妙なもんが見つかった」
「妙なもの?」
「お前の巨人と同じような質感の岩だ」
ノアの表情が変わった。
「アークと同じ……?」
「詳しいことは分からん。ただ、普通の岩じゃないことは確かだ。表面が妙に滑らかで、ところどころ青白く光る筋が走っている」
ミリアも目を丸くした。
「それ、前からあったの?」
「岩肌の一部は昔から見えていた。だが、ここへ移ってきてから周りの崖を整えているうちに、もっと広く露出したんだ。昨日、若い衆が見つけた」
ガラムはノアを見た。
「お前さんと関係があるかもしれん。見ておいた方がいい」
ノアは一瞬、王都の方角へ目を向けた。
アーク・ギガントの修理。
ルナとアウレリウス。
リヴァリアに残された灯台地下施設。
気になることはいくらでもある。
けれど、アーク・ギガントと同じ材質。
それを聞いて無視することはできなかった。
「行ってみます」
ノアが答えると、ミリアは当然のように荷袋を背負い直した。
「じゃ、行こっか」
「ミリアも?」
「行くに決まってるでしょ」
「でも、渓谷って危ないんじゃ」
ミリアは腰に手を当てた。
「昨日の約束、忘れた?」
ノアは言葉に詰まる。
絶対に死なせない。
一緒に帰ってくる。
そう約束したばかりだった。
「……忘れてない」
「ならよし」
ミリアは満足げに頷いた。
ガラムは二人を見て、やれやれと肩を落とす。
「若い衆を案内につけるか?」
「大丈夫、場所なら私が分かるから」
ミリアが即答する。
「何度も行ってるもん」
「えらそうに言うな!」
ガラムは深くため息をついた。
「なら、気をつけろ。崖はところどころ脆いからな」
「分かってます」
「はーい」
ノアは頷いた。
ミリアも元気よく手を上げる。
「行ってこい」
ガラムに見送られて、ノアとミリアは村を出た。
背後から、村人たちの声が飛んでくる。
「ミリア、崖から落ちるなよ!」
「落ちないってば!」
ミリアが振り返って叫ぶ。
ノアはその横で軽く頭を下げた。
朝の光の中、二人は西の渓谷へ向かった。
*
渓谷へ続く道は、村の畑の脇から細く伸びていた。
旧牧草地の端を抜け、低い灌木の間を進む。
地面はだんだんと硬くなり、草の緑は少しずつ減っていく。
風の音が変わった。
村の中で聞く柔らかな風ではない。
岩肌にぶつかり、細い隙間を抜ける乾いた風。
「昔、ここで迷ったことがあるんだ」
ミリアが先を歩きながら言った。
「近づくなって言われて言った時のこと?」
「だって危ないから行くなって言われたら、何があるのか気になるでしょ」
「分からなくはないけど、そりゃ危ないよ」
ミリアは少し照れくさそうに笑った。
「帰ってきたら、お爺ちゃんにめちゃくちゃ怒られた」
「そりゃそうだろうね」
「さすがにちょっと反省した」
「それでもちょっとなんだ……」
ガラムの苦労が偲ばれる。
ミリアは気にした様子もなくにこにこしていた。
その笑顔の奥に、ノアは昨日の夜の会話を思い出す。
ここに帰ってくる。
生きて帰る。
その約束が、今も胸に残っている。
しばらく歩くと、道は急に開けた。
目の前に、深い渓谷が広がっていた。
切り立った岩壁。
下を流れる細い川。
ところどころに崩れた岩が積み重なり、朝日を受けて影を作っている。
そして、その西側の崖。
そこに、異質なものが見えていた。
「……あれかな?」
ミリアが指差す。
灰色の岩肌の中に、そこだけ違う質感の面があった。
石のざらつきがない。
鉄のような錆もない。
滑らかで、冷たい光を返す、蒼銀色の表面。
ノアは息を呑んだ。
「アークと……同じだ」
見た目は岩肌に埋もれている。
けれど、岩ではない。
ところどころに土と苔が張りつき、長い年月の中で崖の一部のようになっている。
だが、その下には人工物の曲線が見えた。
「こんなのが、ずっとここに……?」
ミリアが呟く。
ノアは無言で手を伸ばした。
指先が、蒼銀色の表面に触れる。
冷たい。
けれど、ただの金属の冷たさではなかった。
奥深くで眠る何かが、わずかに反応したような感覚。
ノアの胸の奥が、かすかに震える。
その瞬間だった。
低い音が、崖全体に響いた。
「え?」
ミリアが身構える。
蒼銀色の表面に、細い光が走った。
一本、二本、三本。
まるで眠っていた血管に光が流れ込むように、青白い線が岩肌の中へ広がっていく。
ノアは思わず後ずさった。
「反応している……?」
頭の奥に、かすかな声が響いた気がした。
けれど、それはアーク・ギガントの声ではなかった。
もっと遠い。
もっと古い。
続いて、眠りの底から起こされたような、微弱な機械音声が響く。
――認証……断片確認。
――王統反応……照合中。
「ノア、今の聞こえた?」
ミリアが周囲を見回す。
「うん。聞こえた」
その言葉と同時に、目の前の崖が大きく震えた。
小石がぱらぱらと落ちる。
続いて、岩肌に亀裂が走った。
「まずい、崩れる!」
ノアがミリアの腕を掴む。
二人は慌てて後ろへ下がった。
直後、渓谷の岩壁が大きな音を立てて崩れ始めた。
轟音。
土煙。
砕ける岩。
崩れ落ちる苔と木の根。
ミリアが腕で顔を覆う。
「わっ!」
ノアはミリアの前に立ち、飛んでくる小石を庇う。
崩落は長くは続かなかった。
やがて土煙が少しずつ晴れていく。
その向こうに、巨大なものがあった。
「……あれは、翼?」
ミリアが呟いた。
確かにそれは、翼だった。
崖の中に埋もれていたもの。
岩と土をまとい、長い年月を眠っていた巨大な翼。
左右へ広がる翼状の構造体。
折り畳まれた複数の装甲翼。
中央には、何か別のものと接続するためと思われる巨大な連結基部。
色は、アーク・ギガントと同じ蒼銀。
縁には白に近い装甲が重なり、内部には青白い導光線が細く走っている。
ノアは言葉を失った。
胸の奥で、何かが動く。
遠い記憶。
風。
空。
炎。
落下。
それはアーク・ギガントの背に接続されていた、巨大な翼。
燃える王都から離脱する夜。
紅い光が背後から迫る。
衝撃。
墜落。
暗転。
一瞬だけ、そんな映像が脳裏をかすめた。
「……これは」
ノアは震える声で呟く。
「アークの……?」
その時、巨大な翼の中央部に光が灯った。
――王統認証、限定成立。
――外装封印、解除。
――飛行支援装備……待機状態より復帰。
途切れ途切れの機械音声が響く。
――第一王位継承者、ノア・アステリオン殿下の生体反応を確認。
――おかえりなさいませ、王子殿下。
その音声に、ノアは目を見開いた。
自分のことを、知っているのだ。
巨大な翼の基部には、胸部ではなく背部に接続するための複雑な機構がある。
アーク・ギガントの背部推進機構と似た形状。
だが、それよりもはるかに大きく、複雑で、力強い。
よく見ると、その上部には小さな区画があった。
人が入れるほどの、補助搭乗席のような空間。
「あそこ……乗れるのかな」
ミリアが覗き込む。
「待って、あまり近づくと」
「大丈夫、大丈夫」
「その大丈夫は信用できない」
ミリアが小さな開口部に手をかけると、そこにも青白い光が走った。
カチ、と音がして、内部の扉が開く。
ミリアは固まった。
「……開いちゃった」
「だから言ったのに」
ノアが慌てて近づく。
内部には、ちょうど一人が座れるほどの狭い座席があった。
アーク・ギガントのような本格的な操縦席ではなく、補助者や同乗者を乗せるためのものに見える。
どうやら機能はまだ生きているらしい。
光板が薄く点灯する。
――補助搭乗席、使用可能。
――安全固定具、要確認。
――主接続対象、未確認。
――王統機兵との接続を推奨。
「王統機兵って……アークのことだよね」
ミリアが言う。
ノアは無言で頷いた。
その時、携帯導光端末が淡く光った。
ルナの姿が浮かび上がる。
通信越しのためか、輪郭は少し揺れていた。
『ノア、ミリア。こちら王都中枢です。そちらで高出力の王統反応を検知しました。状況を報告してください』
「ルナ」
ノアは翼を見上げる。
「渓谷で、アークと同じ材質の装備を見つけた。巨大な翼みたいな機械だ」
ルナの表情が、わずかに変わった。
『翼状装備……?』
「たぶん、アーク・ギガントの背部に接続するものだと思う。今、補助搭乗席みたいなものも開いた」
しばらく沈黙。
ルナが何かを照合しているのだと分かった。
やがて、彼女は静かに言った。
『該当する装備の記録があります』
「知ってるの?」
『記録は断片的です。ですが、アーク・ギガントには本来、長距離単独飛行を可能にする外部支援装備が存在していたとされています』
ミリアの目が大きく開く。
「本当にアークの翼なんだ」
『その名称は――』
ルナの声が一瞬だけ途切れる。
そして、はっきりと告げた。
『光翼推進機構〈アーク・セレスター〉』
その名を聞いた瞬間、ノアの胸の奥で何かが響いた。
アーク・セレスター。
知らないはずの名前。
けれど、初めて聞いた気がしない。
ノアはそっと胸に手を当てた。
「アーク・セレスター……」
ミリアもその名を繰り返す。
「アークの、翼」
ルナは続ける。
『ノア。可能であれば、その装備を王都まで移送してください。アーク・ギガントの修復に必要な手がかりになる可能性があります』
「移送って……これを?」
ノアは巨大な翼を見上げる。
どう見ても、人の手で運べる大きさではない。
村人たちに手伝ってもらってどうにかなるものでもない。
すると、アーク・セレスターの光板がまた点灯した。
――搭乗者認証により、自律飛行機能を起動可能。
――目的地登録を要求します。
ミリアがノアを見る。
「……飛べるって言ってる?」
「たぶん」
ミリアはしばらく黙った。
それから、ゆっくりと笑顔になった。
「じゃ、乗るしかないやつだ」
「待って、まだ安全かどうか」
『はい、安全確認は必要です』
ルナがすかさず言った。
『現在のアーク・セレスターは、長期間の停止状態にありました。完全な安定性は保証できません』
「でも、王都へ運ばないといけないんだよね」
『はい。アーク・ギガントの修復および機能回復に、大きく関与する可能性があります』
ノアはアーク・セレスターを見上げた。
千八百年前。
自分は、これと共に空を飛んだのだろうか。
王都から脱出した時。
父に逃げろと言われた時。
アーク・ギガントは、この翼を背負っていたのだろうか。
そして何らかの戦いで翼を失い、自分はアルナ村に落ちた。
アーク・ギガントは、村の地の底へ。
アーク・セレスターは、この渓谷の崖の中へ。
二つに分かれて、長い眠りについた。
そう考えると、奇妙な縁を感じた。
「……乗ろう」
ノアはそう呟き、巨大な翼に手を触れた。
「きっと、これはアークに渡さないといけないものだ」
アーク・セレスターの導光線が、ノアの言葉に応えるように淡く輝いた。
*
補助搭乗席は、想像していた以上に狭かった。
ノアもミリアも大人と比べれば小柄な方とは言え、一人乗り用の座席に二人乗るのだ。
中央部の座席にノアが座り、その少し後ろにミリアが座る形になる。
安全固定具が二人の身体を包み込み、足元の光板が起動した。
「……狭い」
ミリアが言った。
「本来は一人乗りみたいだからね……」
ノアも少しだけ気まずい。
後ろに居るミリアを気にしないようにしながら、ルナの指示を聞く。
『アーク・セレスターの出力は制限されています。急上昇、急旋回は避けてください』
「操作は?」
ノアが尋ねる。
『基本的には自律航行です。ノアの王統認証に従って目的地を設定してください』
「分かった」
ノアは光板に手を置く。
「目的地、王都アステリア」
光板に文字が走る。
――目的地登録。
――王都アステリア。
――飛行経路、算出中。
――出力制限下での離脱を開始。
翼が広がった。
長い眠りから目覚めるように、装甲翼が一枚ずつ展開していく。
渓谷に風が巻き起こり、砂と小石が舞った。
ミリアが息を呑む。
「ほんとに飛ぶんだ……!」
アーク・セレスターの内部に、低い駆動音が満ちる。
蒼白い光が翼の先まで流れた。
次の瞬間、巨体がゆっくりと浮き上がる。
渓谷が下へ遠ざかる。
ミリアが小さく声を上げた。
「すごい……!」
ノアも息を呑んだ。
アヴィス・ライナーとは違う。
これはもっと重く、もっと大きく、もっと強い。
空を滑るというより、大地ごと持ち上げるような感覚だった。
やがて、アーク・セレスターは渓谷の上空へ出た。
「見て、あそこ!」
ミリアが指を差す。
新しいアルナ村の姿が見える。
村人たちが空を見上げている。
ガラムが杖を掲げているのが、小さく見えた。
「……お爺ちゃん」
その声は、風に溶けるように小さかった。
ガラムは何も言わなかった。
だが、その目ははっきりとこちらを捉えていた。
そして、ゆっくりと――
小さく、頷いた。
まるで、
「行ってこい」
とでも言うように。
ノアはその姿を見つめた。
言葉は届かない。
だが――
「……行ってきます」
小さく、呟く。
帰ってくる。
そう約束した場所が、眼下にある。
そして今、自分はアーク・ギガントの失われた翼を連れて、王都へ戻る。
「ノア」
ミリアが後ろから声をかける。
「ちゃんと帰ってこようね」
「うん」
ノアは頷いた。
青い空の下を、蒼銀の翼が進む。
千八百年の眠りから目覚めた翼。
王都から逃げるため、一度は失われた翼。
そして今、もう一度未来へ進むために取り戻された翼。
行き先は、王都アステリア。
傷ついたアーク・ギガントが待つ場所。
ノアは前を見据えた。
この翼が、もう一度繋がる時。
自分たちは、きっとまた一歩進める。
敗北の先へ。
恐怖の先へ。
そして、帰るための戦いへ。
アーク・セレスターは朝の光を受け、蒼白い軌跡を空に描いた。
――第45話へつづく
※おことわり
本作品は、設定の整理や本文草稿の作成補助・推敲に生成AI(ChatGPT等)を使用しています。使用用途・範囲の詳細については、作品概要ページをご確認ください。




