第43話「もう一度、帰ってくるために」
その日の夜。
アルナ村は、静かな風に包まれていた。
旧牧草地に築かれたばかりの村には、まだ立派な家屋は少ない。
木組みの仮小屋。
布を張っただけの天幕。
荷車を横付けした作業場。
けれど、焚き火の周りには人が集まり、湯気の立つ鍋があり、子どもたちの寝息があった。
場所が変わっても。
家々が焼けても。
アルナ村の人々は、また新しい朝を迎える準備をしている。
ノアは、仮小屋の前に置かれた丸太に腰を下ろしていた。
空には星が出ている。
アルナ村で初めて見た夜空と、どこか似ていた。
あの日、自分は何も知らなかった。
名前も、過去も、自分が何者なのかも。
ただミリアが隣にいて、村の人たちがいて、明日も同じ朝が来ると思っていた。
その平穏は、もう戻らない。
けれど、今ここにある灯は、確かに同じ温かさを持っていた。
「眠れないの?」
声がした。
振り向くと、ミリアが立っていた。
肩に薄い毛布を引っかけ、片手には木の杯を持っている。
「少しだけ」
ノアが答えると、ミリアは隣に腰を下ろした。
「はいこれ」
差し出された杯には、温めた山羊乳が入っていた。
少しだけ蜂蜜の香りがする。
「ありがとう」
ノアは受け取り、ひと口飲む。
甘くて、温かい。
身体の奥に残っていた疲労が、ほんの少しだけ溶ける気がした。
「おいしい」
「でしょ。サナ婆ちゃん特製なんだ」
ミリアは小さく笑った。
けれど、その笑いはすぐに夜の静けさへ溶けていった。
しばらく、二人は黙っていた。
焚き火のはぜる音。
遠くで鳴く夜鳥の声。
眠る村人たちの小さな気配。
平和な音ばかりだった。
その平和さが、かえって胸を締めつける。
ミリアは杯を両手で包み込みながら、ぽつりと言った。
「ねえ、ノア」
「うん」
「本当に、これからも旅を続けるの?」
ノアはすぐには答えられなかった。
ミリアは視線を落としたまま続ける。
「王都に戻って、アークを直して、それでまたリヴァリアに行って、灯台を調べて……その先も、きっとあるんだよね」
「……うん」
「王都のこと。昔の王国のこと。統治機兵のこと。アウレリウスのこと。ノアのお父さんのこと」
言葉を重ねるたび、ミリアの声が少しずつ小さくなる。
「知らなきゃいけないことが、いっぱいあるんだよね」
「うん」
ノアは静かに頷いた。
ミリアは顔を上げなかった。
「でもさ」
その声は、いつもの明るい調子ではなかった。
「このままここにいても、いいんじゃないかな」
ノアはミリアを見る。
ミリアは、杯の水面を見つめていた。
揺れる焚き火の光が、その瞳に映っている。
「もしかしたらさ、ここで暮らしててもそのうち思い出すかもしれないよ」
「…うん」
ミリアは無理に笑おうとした。
「ノアがいたら、みんな喜ぶよ。畑仕事は相変わらず下手っぴかもしれないけど」
「そこは少し上達してると思いたいな」
ノアが苦笑し、ほんの少しだけ二人の間に笑いが生まれた。
だが、すぐに消える。
ミリアは両手で杯を握りしめた。
「それに……無理に全部思い出さなくても、いいんじゃないかなって」
その言葉は、震えていた。
「思い出さないままでいるのは、つらいかもしれないけど」
ノアは何も言えなかった。
ミリアはそれでも続ける。
「今のノアがここにいることだって、大事なことだよ」
夜風が、二人の間を抜ける。
「今のあなたは、アルナ村のノアなんだから」
それは、いつかミリアが言ってくれた言葉だった。
『何者かなんて、あとで思い出せばいい。』
『今のあなたは、アルナ村のノアだよ。』
あの言葉に、ノアは救われた。
だからこそ、今のその言葉には、大切な意味が込められていた。
「ミリア」
ノアが静かに呼ぶ。
ミリアは唇を噛んだ。
「……ほんとはね、ちょっと怖いんだ」
その声は、ほとんど吐息のようだった。
「リヴァリアで、アークの通信が途切れた時」
ノアの胸が冷たくなる。
「ノアが、『ごめん』って言った時」
ミリアの指が震えていた。
「もう帰ってこないんだって、思った」
ノアは目を伏せた。
あの時、自分は確かに思った。
街を守れるなら、それでいいと。
自分が戻れなくても、ミリアが生きているなら、それでいいと。
それがミリアにとってどれほど残酷な結末をもたらす考えだったのか。
今なら少し分かる。
ミリアは続けた。
「ノアは優しいよ。たぶん、すごく優しい。誰かを守るためなら、自分が傷つくことをすぐ後回しにする」
「……」
「でも、それって怖いよ」
ミリアの声が震える。
「旅を続けたら、また戦うでしょ。統治機兵とか、もっと強いやつとか、何かよく分からない大きなものと」
ノアは答えなかった。
答えられなかった。
「そのたびに、ノアがまた同じことを考えたらどうしようって思う」
ミリアは笑おうとした。
けれど、うまくいかなかった。
「戻れなくてもいいって、また思ったらどうしようって」
その言葉が、ノアの胸に深く突き刺さった。
ミリアは、怒っているのではなかった。
責めているのでもない。
怖かったのだ。
守ろうとした結果、ノアがいなくなってしまうことが。
ノア自身が、それを許してしまうことが。
「だから……」
ミリアは小さく息を吸う。
「それだったら、ここで静かに暮らしてもいいんじゃないかなって思ったんだ」
夜が静かだった。
焚き火の音だけが、二人の間に落ちる。
ノアは、手の中の杯を見つめた。
温かい。
甘い。
穏やかだ。
ここにいれば、きっと優しい日々がある。
朝起きて、畑を手伝う。
ミリアに笑われながら、鍬の持ち方を直される。
ガラムに怒鳴られ、村の人たちと笑って。
子どもたちに囲まれて、旅の話をせがまれる。
夜には焚き火のそばで、今日の失敗を笑い合う。
そんな日々を、ノアは想像できた。
それは、あまりにも魅力的な未来の憧憬だった。
「……僕も」
ノアは静かに口を開いた。
「ここにいたいと思うよ」
ミリアがゆっくりと顔を上げる。
ノアは夜の村を見る。
「ここは、僕が目覚めた場所だから。みんなが僕に名前をくれて、居場所をくれた場所だから」
胸の奥が温かくなる。
「僕にとっての始まりは、この村だから」
ミリアの瞳が揺れた。
ノアは続けた。
「だから、ここに帰ってきたい。でも――」
ノアは、ミリアを見る。
「僕がここにいれば、また統治機兵が来るかもしれない」
ノアは静かに言った。
ミリアが息を呑む。
「アルナ村が襲われたのは、偶然じゃなかった。僕が目覚めたから。アークが起動したから。王統反応を検出されたから」
ミリアは何も言わなかった。
もしかしたら、薄々は気付いていたのかもしれない。
「フェルグラードも、リヴァリアも、僕と無関係じゃなかった。きっと、これから行くところもそうだと思う」
ノアの指が、杯を握る。
「僕が何も知らないままここにいれば、危険がここへ来る。みんなを巻き込む」
「……でも」
ミリアの声は小さかった。
「旅を続けたら、ノアが危ないよ」
「うん」
ノアは頷いた。
「危ないと思う」
嘘はつけなかった。
「統治機兵はまだ動いている。王国を滅ぼした何かも、きっとまだ残ってる。僕が王統継承者である限り、どこにいても安全じゃない」
ミリアは唇を噛む。
ノアは、夜空を見上げた。
「だからこそ、知らなきゃいけない」
星が瞬いていた。
かつて父が見上げたかもしれない空。
王国が滅びた夜にも、そこにあったかもしれない空。
「自分が何者なのか。何が起きたのか。どうして今も敵が動いているのか」
ノアはゆっくり言葉を選ぶ。
「全部知ったうえで、僕はどう生きるかを決めたい」
「どう生きるか……」
ミリアが呟く。
「王子としてなのか。アルナ村のノアとしてなのか。それとも、どちらでもない何かとしてなのか」
ノアは自分の胸に手を当てた。
「まだ分からない。でも、分からないまま逃げ続けたら、どんどん追い詰められていくと思う」
リヴァリアの海が脳裏をよぎる。
戻れなくてもいい。
あの一瞬の諦め。
ノアは目を閉じ、そして開いた。
「だから、もう一度ちゃんと決めたいんだ」
「何を?」
「生きて帰るってことを」
ミリアが息を呑んだ。
ノアは、まっすぐミリアを見る。
「僕は、戦う。たぶん、これからも」
その言葉に、ミリアの表情が強張る。
「でも、もう『戻れなくてもいい』とは思わない」
ノアはゆっくり言った。
「守るために戦う。でも、帰るためにも戦う」
ミリアの瞳が揺れた。
「この村に。ミリアのところに。みんなのところに」
ノアは少しだけ笑った。
「僕は、帰ってきたい」
ミリアは何も言わなかった。
ただ、目を伏せる。
肩が少しだけ震えていた。
夜風が吹いた。
ミリアの髪が揺れる。
夕陽の赤はもう消え、焚き火の橙がその髪を照らしていた。
長い沈黙。
やがて、ミリアが小さく息を吐いた。
「……ずるいよ」
「え?」
「そんな言い方されたら、止められないじゃん」
ノアは困ったように笑った。
「ごめん」
「また謝った」
「ごめ……いや、えっと」
「そこは謝らなくていいの」
ミリアはノアを見た。
その目にはまだ不安があった。
怖さもあった。
けれど、その奥に、少しだけ決意が宿っていた。
「分かった」
ミリアは言った。
「ノアが行くなら、私も行く」
「危ないよ」
「知ってる」
ミリアは立ち上がり、ノアの前に立つ。
「ノアは戦うんでしょ」
「……うん」
「だったら私は、ノアを支える」
ノアが顔を上げる。
ミリアは胸を張った。
「道を見る。ご飯を作る。地図を読む。変な方向に考え込み始めたら、ちゃんと止める。危ない時は怒る。怪我したら手当てする」
指を折りながら、ひとつずつ数える。
「それから、ノアがまた『戻れなくてもいい』とか考えそうになったら、全力でほっぺを引っぱる」
「それは痛そうだね」
「とっても痛くする」
きっぱりと言った。
ノアは少しだけ笑った。
ミリアは笑わなかった。
その代わり、まっすぐ言った。
「ノアが戦うのなら、私はノアを帰らせる。何があっても。どれだけ強い敵が出ても。ノアが諦めそうになっても」
ミリアは拳を握る。
「私が絶対に、死なせない」
ノアは言葉を失った。
その言葉は、強かった。
けれど、押しつけではなかった。
ミリア自身の恐怖から逃げるためではない。
ノアを縛るためでもない。
一緒に行くと決めた者の、まっすぐな宣言だった。
ノアは胸の奥が熱くなるのを感じた。
「……ありがとう、ミリア」
今度の礼は、自然に出た。
「べ、別にお礼を言われることじゃないし」
「でも、嬉しかった」
「そういうこと、急に言うのやめて」
「え?」
「なんか落ち着かないの!」
ミリアはぷいっと横を向いた。
その仕草がいつものミリアらしくて、ノアは少し笑った。
ミリアは咳払いをする。
「全部終わったら、ちゃんと帰ってこよう」
ノアは静かにミリアを見る。
「ここに?」
「うん。ここに」
ミリアは村の灯を見る。
ノアも村の方を少し眺め、そして答えた。
「うん。帰ってこよう」
その返答を聞いて頷くと、ミリアが小指を差し出した。
「じゃ、約束」
ノアは少し驚く。
「なにそれ?」
「ゆびきり。知らない?」
「初めてみた」
記憶がないからなのか、大昔には無かったまじないなのか。
それはノアにはわからなかった。
「これをするとね、約束破った人には何をしてもいいことになってるの」
「思ったより重い契約だった」
「だから、破ったら鍬でひっぱたくね」
「前にも言ってたねそれ」
ノアは笑い、小指を絡めた。
「約束する」
ミリアの指は温かかった。
「全部終わったら、またここに帰ってこよう」
「うん」
二人は小指を離した。
その瞬間、ノアの胸の中で、何かが静かに定まった気がした。
王子としての使命。
王国最後の生き残りとしての責任。
統治機兵と戦う理由。
それらはまだ重い。
けれど、その奥にもうひとつ、確かなものができた。
帰る場所。
そして、帰る約束。
二人は並んで夜の村を見た。
焚き火の光。
仮小屋の窓明かり。
眠る人々の気配。
その全てが、旅の終わりに戻るべき場所のように思えた。
ノアは静かに息を吸う。
リヴァリアで敗れた。
アーク・ギガントは傷ついた。
自分の弱さも、怖さも、思い知った。
けれど、ここで立ち止まるために帰ってきたのではない。
もう一度、進むために。
もう一度、帰ってくるために。
その夜、ノアは久しぶりに深く眠った。
夢の中で、燃える王都の景色は現れなかった。
代わりに見えたのは、朝のアルナ村だった。
誰かが笑っている。
ミリアがこちらを振り返る。
遠くで鶏が鳴く。
そしてノアは、その場所へ歩いていく。
帰るための道を、確かめるように。
――第44話へつづく
※おことわり
本作品は、設定の整理や本文草稿の作成補助・推敲に生成AI(ChatGPT等)を使用しています。使用用途・範囲の詳細については、作品概要ページをご確認ください。




