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第四章サイドストーリー2「できる限りのこと」

窓の外で、海鳥が鳴いていた。


港町リヴァリアの朝は、いつも少し騒がしい。


波の音。

荷車の車輪が石畳を転がる音。

漁師たちの呼び声。

蒸気船の汽笛。

遠くで響く、ギア・ノードの駆動音。


そのすべてが、診療所の小さな窓から、柔らかく流れ込んでくる。


セーラは、寝台の上で身体を起こしていた。


数日前まで、ただ呼吸をするだけでも苦しかった。

胸の奥が焼けるように熱く、皮膚の黒ずみは広がり、意識は何度も暗い底へ沈みかけた。


けれど今は、こうして窓の外を見られる。


手を動かせる。

息を吸える。

声を出せる。


それが、少し不思議だった。


「うん。顔色は悪くないね」


いつもの軽い声がして、レピオスが寝台の横へやって来た。


白衣の袖を少しまくり、片手には診察用の小さな鞄。

眼鏡の奥の目は細められていて、いつものように何を考えているのか分かりにくい。


けれど、ここ数日でセーラには少し分かったことがある。

この先生は、笑っている時ほど、案外ちゃんと見ている。


レピオスは椅子に腰かけると、セーラの脈を取った。


「熱は下がってる。呼吸も安定。黒斑の広がりも止まった。皮膚のひび割れも、これなら大きな痕は残らないだろう」


「本当ですか?」

「僕が患者に嘘をつくように見える?」


セーラは少し考えた。


「冗談は言いそうです」

「正しい判断だ」


レピオスは満足そうに頷く。


「でも診断で嘘はつかない。少なくとも、必要のない嘘はね」

「必要のある嘘はつくんですか?」

「患者が薬を飲まない時に、“苦くないよ”くらいは言う」

「それはただの嘘です」


むっとセーラが睨む。


「医療行為における表現上の工夫だね」


悪びれもしないその言い方に、セーラは思わず小さく笑った。


笑っても、胸はあまり痛まない。

それがまた、嬉しかった。


レピオスは診察記録に何かを書きつける。


「この分なら、もうすぐ退院できるね」

「退院……」


思いがけなかったその言葉に、セーラが小さく呟く。


「もちろん、退院したら終わりじゃない。しばらくは定期的に通ってもらうか、こっちから問診に出向く。無理はしない。重いものを持たない。走らない。禁足地へ近づかない」

「近づきません」

「よろしい」


レピオスは記録帳を閉じた。


「それじゃあ、退院した後にやりたいことでも考えておくといい。寝ているだけだと、頭まで病人になるからね」

「やりたいこと……」


セーラは窓の外へ視線を戻した。


港の通りを、子どもたちが走っていく。


その中に、ハルトの声が混じっている気がした。

シーニャの笑い声も、どこかから聞こえてくるようだった。


退院したら。

何をしたいのだろう。

最初に浮かんだのは、子どもたちの顔だった。


ハルト。

シーニャ。

孤児院の小さな子たち。

近所の子どもたち。


月蜜果を採りに行ったのも、あの子たちを喜ばせたかったからだ。


めったに食べられない甘い果物。

淡い月のような色をした、蜜の多い実。


小さな子たちは、きっと喜ぶと思った。

ハルトは大げさに騒ぐだろうし、シーニャは大事そうに両手で持つだろう。


そう思った。

ただ、それだけだった。


けれど、その結果がこれだ。


黒熱病。

粒子汚染病。

黒蝕型。


自分は死にかけ、シーニャは泣いた。

ハルトは危険なギア・コンチェルトに出ようとした。

ゴルドは大切な賞金を差し出してくれた。

レピオスは必死で治療してくれた。


そして、旅人の少年――ノアは、見ず知らずの自分のために戦った。


セーラは布団の上で、そっと指を握った。


自分は、本当に優しかったのだろうか。


子どもたちのため。

そう思っていた。

でも、本当は違うのかもしれない。


ただ誰かに必要とされたかっただけではないのか。


「セーラお姉ちゃん」と呼ばれたかった。

笑ってほしかった。

頼ってほしかった。


生まれ育った家に戻っても、そこには父も母もいない。

弟の声も聞こえない。


だから、ハルトやシーニャや、小さな子どもたちのそばにいたかっただけなのではないか。


優しいふりをして、誰かに好かれたかっただけなのではないか。


そう考えると、胸の奥が少しだけ冷えた。


セーラには、両親がいない。


十年近く前。

リヴァリアを、重い流行り病が襲ったことがあった。


黒熱病ではない。

禁足地の汚染でもない。


船と人の行き来が多い港町では、時折、遠い土地から病が入り込む。

その年の病は、特にひどかった。


高熱。

咳。

身体の痛み。

弱い者から倒れ、看病する者へ移り、やがて家ごと静かになっていく。


港の通りから笑い声が消え、船乗りたちの歌も聞こえなくなった。

診療所には人が溢れ、祈りの声と泣き声が毎日のように続いた。


セーラはまだ幼かった。

けれど覚えている。


母の手が熱かったこと。

父の声が日に日に弱くなっていったこと。

弟のセムが、そばにいたこと。


間もなく、父も母も、弟もいなくなった。

それからセーラは、孤児院で暮らすようになった。


孤児院の人たちは優しかった。

町の人たちも、皆彼女を気にかけてくれた。


けれど、家族の代わりにはならなかった。

なれるはずもなかった。


だからだろうか。

セーラはいつしか、年下の子どもたちの面倒を見るようになった。


小さな子の手を引く。

転んだ子の膝を洗う。

泣いている子に声をかける。

ハルトの無茶を叱る。

シーニャの髪を結ってやる。


ハルトにも、シーニャにも、帰る家があった。

夕方になれば、それぞれの親が迎えに来たり、家の方から夕食の匂いが流れてきたりした。


その光景を見るたび、セーラの胸は少しだけ痛んだ。


羨ましいと思わなかったわけではない。

でも、そんなふうに思う自分が嫌で、セーラはいつも笑っていた。


あの子たちが悪いわけではない。

家族がいることは、決して恨むようなことではない。


だからこそ、優しくしたかった。

優しくしていれば、胸の奥の寂しさも、羨ましさも、少しは綺麗なものに変えられる気がした。


そうしている間だけ、自分は一人ではない気がした。


誰かの役に立っている気がした。

誰かに、必要とされている気がした。


それは、悪いことなのだろうか。

セーラには、まだよく分からなかった。


黒熱病で苦しんでいた時のことを、セーラは全部は覚えていない。


熱が高すぎて、現実と夢の境目が分からなかった。


身体が重く、呼吸は浅く、皮膚の奥が黒く熱を持っているようだった。

何度も、暗い場所へ沈んでいった。


その暗闇の中で、懐かしい声を聞いた気がした。


母の声。

父の声。

弟の笑い声。


本当に聞こえたのか、熱が見せた夢なのかは分からない。

でも、その時セーラは思った。


このまま、みんなのところへ行くのかもしれない。


父と母とセムがいる場所へ。


もう寂しくない。

もう苦しくない。

もう、誰かに置いていかれることもない。


そう思うと、少しだけ楽になった。


行ってもいいのかもしれない。

そう思った。


その時だった。

遠くで、誰かが泣く声が聞こえた。


「セーラ姉ちゃん!」


ハルトの声。


いつも元気で、うるさくて、勢いだけで走っていく少年の声。

けれどその時の声は、今にも壊れそうだった。


「セーラお姉ちゃん……!」


シーニャの声。


震えた声で、必死に自分を呼んでいた。


その声を聞いた瞬間、セーラは暗闇の中で立ち止まった。


自分がいなくなったら。

ハルトは、シーニャは、どうなるのだろう。


父と母とセムに置いていかれた時、自分はあんなにも悲しかった。

胸に穴が空いたみたいで、毎朝起きるたびに大切な人たちがもういないことを思い知らされた。


自分も、同じことをするのか。

ハルトやシーニャを、置いていくのか。

それは、嫌だった。


もういい、と思いかけていた心が、そこで小さく震えた。


嫌だ。

悲しませたくない。

置いていきたくない。


でも、身体は動かなかった。

声も出なかった。

どこへ向かえば戻れるのかも分からなかった。


その時、また別の声が聞こえた。

知らない少年の声だった。


けれど、不思議と温かかった。


穏やかで、優しくて。

それでいて、折れない強さがある声。


「できる限り、やってみる」


誰の声だったのだろう。


熱にうなされる中で聞いたその声のことは、はっきりとは覚えていない。

でも、その言葉だけは、今も胸に残っている。


できる限り。


やってみる。


力が足りなくても。

怖くても。

勝てるか分からなくても。

それでも、今できることをする。


そういう声だった。


セーラは、ぼんやりと思い出した。

前に、ハルトに言ったことがある気がする。


「できる限りやるって言う人は、きっと最後まで逃げないんだよ」


ハルトはわかっているのかいないのか、だが興味深そうに聞いていたことを覚えている。

きっと、今もこの言葉を覚えていてくれるだろう。


なら。


自分が、ここで逃げてどうするのだろう。


私が諦めて、どうするのだろう。


セーラは暗闇の中で、見えない手を伸ばした。


父と母とセムに会いたい。

それは嘘ではない。


でも、まだ行けない。


まだ、ハルトが呼んでいる。

シーニャが泣いている。

小さな子どもたちがいる。


まだ、戻らなければならない。


そう思った時、身体の奥に小さな熱が灯った気がした。


命を蝕む病の熱とは違う。

生きようとする熱だった。


その後のことは、よく覚えていない。


苦い薬を飲まされた気がする。

レピオスの声がした。

誰かが手を握ってくれていた。

額の布が何度も取り替えられた。


気がつくと、朝だった。


そして、自分はまだ生きていた。


「……退院した後に、やりたいこと」


セーラは小さく呟いた。


窓の外では、リヴァリアの街が少しずつ元に戻ろうとしている。


壊れた倉庫を直す大人たち。

荷物を運ぶギア・ノード。

店を開ける商人。

走り回る子どもたち。


みんな、生きている。


そして自分は、助けられた。


シーニャに。

ハルトに。

ゴルドに。

レピオスに。


ミリアに。

ルナに。


そして、あの旅人の少年に。

ノアという名の、心優しい少年に。


セーラは思った。


自分も、誰かを助けられる人になりたい。


ただ近所の子に優しくするだけではなく。

ただ寂しさを埋めるために手を伸ばすのではなく。


もっとちゃんとした形で。


仕事として。

生き方として。


病に苦しむ人のそばに立つ。

家族を失いそうな子どもを、少しでも減らす。

黒熱病であっても、流行り病であっても、諦めずに手を伸ばす。


そんなことができたら。


その時、診療室の扉が開いた。


「さて、患者さん」


レピオスが戻ってきた。


片手に水差し、もう片手に薬の小瓶。

いつもの軽い笑みを浮かべている。


「退院後にやりたいことは決まったかな? あまり壮大すぎると、医者としては止めるけど」


セーラはレピオスを見た。


言おうとして、少し迷う。


こんなことを言ったら、笑われるだろうか。


黒熱病にかかったばかりの自分が。

たくさんの人に助けられたばかりの自分が。

まだ一人で立つこともできない自分が。


誰かを助けたいなんて。


でも。

できる限り、やってみる。

あの声が、胸の奥で静かに響いた。


セーラは顔を上げる。


「先生」

「うん?」

「お医者さんになるためには、何をしたらいいですか?」


レピオスの手が、止まった。


水差しの中で、小さく水面が揺れる。

いつもならすぐに軽口が返ってくるはずだった。


「まずは薬を苦くないと信じるところから」とか。

「医者になる前に患者として言うことを聞くところから」とか。


けれど、レピオスは何も言わなかった。


眼鏡の奥の細い目が、少しだけ開かれている。

セーラは不安になって、布団を握った。


「だめ、ですか?」


レピオスはゆっくりと瞬きをした。

それから、ほんの少しだけ笑った。

いつもの、胡散臭いような笑みではない。


懐かしいものを見つけたような。

少し困ったような。

けれど、どこか嬉しそうな笑みだった。


「……まずは」


レピオスは椅子を引き、セーラのそばに座った。


「ちゃんと治ることからだね」


セーラは息を呑む。

レピオスは続ける。


「医者の言うことを聞かない患者は、医者には向かない」

「それは……頑張ります」

「よろしい」


レピオスは薬の小瓶を差し出した。


「じゃあ、未来のお医者さん。まずは今日の薬だ」


セーラは小瓶を受け取った。

薬は、きっと苦い。

でも、今は少しだけ怖くなかった。


窓の外で、また海鳥が鳴いた。


港町リヴァリアの朝は、今日も騒がしい。

その騒がしさの中で、セーラは小さく笑った。


できる限り、やってみる。

その言葉を、今度は自分のものにするために。


――本編第五章へ続く。

※おことわり

本作品は、設定の整理や本文草稿の作成補助・推敲に生成AI(ChatGPT等)を使用しています。使用用途・範囲の詳細については、作品概要ページをご確認ください。

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