第四章サイドストーリー1「医学の意地」
浮航艇が夕焼けの空へ消えていく。
港町リヴァリアの人々は、しばらくのあいだ、その姿を見ていた。
傷ついた蒼き巨人。
その傍らに立っていた、赫き親衛機兵。
そして、どこか遠くの地へと帰っていく少年たち。
海風が吹く。
戦いの残響は、まだ港のあちこちに残っていた。
壊れた倉庫。
ひび割れた石畳。
海岸線に残る巨大な足跡。
浅瀬に沈んだ統治機兵の残骸。
それでも、人々は動き始めている。
漁師は破れた網を片づけ、工夫たちは崩れた荷置き場を調べ、ギア・ノードを動かせる者たちは瓦礫の撤去に取りかかっていた。
壊されたものはある。
だが、街は残った。
人も、生きている。
その事実だけで、リヴァリアはまた明日へ進める。
「さて、と」
レピオスは、浮航艇が見えなくなった景色から視線を戻した。
白衣の裾が潮風に揺れる。
「感動的なお見送りはここまで。僕は医者なのでね、戻って患者を診なきゃならない」
「先生!」
隣でハルトが振り返る。
「セーラ姉ちゃん、もう起きてるかな!」
「起きているかもしれないし、寝ているかもしれない。治療直後の患者に必要なのは、安静と休息と、騒がしい少年を診療所から遠ざけることだ」
「おれ、騒がしくないぞ!」
「その声量で言われても説得力がないねえ」
レピオスが肩をすくめると、ハルトはむっと頬を膨らませた。
その横で、シーニャが小さく笑った。
ずっと泣き腫らしていた目元はまだ赤い。
けれど、そこには少しだけ安心の色が戻っている。
「セーラお姉ちゃん……ほんとに、大丈夫なんですよね?」
「大丈夫にするために、僕がこれから戻るんだよ」
レピオスは軽く言う。
「もっとも、薬は効いている。熱も下がり始めている。黒化の進行も止まった。あとは本人の体力次第だ」
「よかった……」
シーニャが胸元で両手を握る。
その瞬間。
「うおおおおおん!」
背後で、大きな泣き声が響いた。
ハルトとシーニャが同時に肩を跳ねさせる。
ゴルドだった。
大男は両腕で顔を覆い、滝のように涙を流している。
「よかったなあ、セーラぁ! 生きてるってのはいいことだなあああ!」
「ゴルド。港中に響いてる」
レピオスが淡々と言う。
「響かせてんだよ! いい知らせは港中に響かせた方がいいだろうが!」
「病人が寝ている診療所の前では、もう少し控えめに」
「おう、分かった!」
ゴルドは大きく頷いた。
そして一拍置いて、先ほどより少しだけ小さい声で泣いた。
「うおおおん……!」
「うん、努力は認めよう」
レピオスは眼鏡を押し上げ、診療所へ向かって歩き出した。
ハルトとシーニャが続く。
ゴルドも鼻をすすりながら後に続いた。
港の裏通りにあるレピオスの診療所は、戦闘中も無事だった。
扉には避難時に貼られた紙がまだ残っている。
窓辺には薬草の鉢。
中に入ると、薬の匂いと、消毒に使う蒸留酒の匂いが混じっていた。
診療所の奥。
小さな寝台に、セーラが横になっていた。
頬はまだ青白い。
額には汗がにじみ、腕には黒い斑点の跡が薄く残っている。
だが、以前のような苦しげな呼吸はない。
浅く、静かに、規則正しく息をしている。
シーニャが駆け寄ろうとして、寸前で足を止めた。
レピオスが無言で人差し指を立てたからだ。
「起きてる……?」
ハルトが小声で尋ねる。
「半分くらいね」
レピオスは寝台の傍に腰を下ろし、セーラの脈を取った。
その手つきは、いつもの軽い口調とはまるで違っていた。
正確で、迷いがない。
セーラの瞼がわずかに動く。
「……先生……?」
かすれた声だった。
シーニャの目に、また涙が浮かぶ。
「セーラお姉ちゃん……!」
「シーニャ……? ハルトも……」
セーラはゆっくりと視線を動かした。
そして、ゴルドの巨体を見つけて、少し目を丸くする。
「ゴルドさんまで……」
「うおおおおん! 喋った! セーラが喋ったぞ!」
「ゴルド」
レピオスが静かに呼ぶ。
「小声」
「おう……!」
ゴルドは両手で口を押さえた。
それでも目から涙は止まらない。
セーラは小さく笑おうとした。
けれど、すぐに表情を曇らせる。
「……ごめんなさい」
その一言に、部屋の空気が少しだけ止まった。
シーニャが首を振る。
「セーラお姉ちゃん?」
「私が……月蜜果なんて採りに行ったから……」
セーラの声は細い。
「シーニャにも、ハルトにも、先生にも、迷惑かけた。ゴルドさんにも……大事な賞金を……」
「セーラ姉ちゃん!」
ハルトが思わず声を上げる。
「迷惑なんかじゃない!」
「でも……」
「ちがう!」
ハルトの拳が震えていた。
「セーラ姉ちゃんは、ちびたちに月蜜果食べさせようとしただけだろ! 悪いことしてない!」
シーニャも寝台の傍へ寄る。
「そうだよ。セーラお姉ちゃん、いつもみんなのこと考えてくれてるもん」
「でも、シーニャは、あの端末を……」
シーニャはぎゅっと唇を結んだ。
「私が勝手にしたの。セーラお姉ちゃんのせいじゃない」
「ハルトも、ギアに乗ろうとしたって……」
「それもおれが勝手にした!」
ハルトは胸を張る。
「……怒られたけど」
「そりゃ怒るよ」
レピオスが横から言う。
「九歳の少年が闘技大会のギアに乗ろうなんて、医者の寿命を縮める趣味にもほどがある」
「ごめんなさい」
ハルトは素直に頭を下げた。
ゴルドが大きな手でハルトの頭を撫でる。
「でも根性はあったぞ、ハルト!」
「ゴルド、褒めるところじゃない」
「おう、そうだった!」
ゴルドは今度はセーラの方を見た。
大きな身体をかがめ、できるだけ優しい声を出す。
「セーラ。賞金のことなら気にすんな」
「でも……」
「俺が勝ち取った金を、俺が使いたいように使っただけだ」
ゴルドはにっと笑った。
「それでお前が助かった。だったらこれ以上気持ちいい使い道はねぇよ」
「ゴルドさん……」
「だから謝るな。礼なら受け取る!」
セーラの目から、涙がこぼれた。
「……ありがとうございます」
ゴルドの顔が一瞬で崩れた。
「うおおおおん! どういたしましてえええ!」
「小声」
「うおおん……」
レピオスはため息をついた。
けれど、その目元は少しだけ柔らかかった。
セーラは涙を拭いながら、今度はレピオスを見た。
「先生も……ありがとうございました。私、もうだめだと思っていました」
「だめにしないのが医者の仕事だからね」
レピオスは軽く答える。
「ただし、説教はする」
セーラが小さく身を固くした。
レピオスは椅子に座り直す。
声は穏やかだった。
だが、逃げ場のない真剣さがあった。
「君が子どもたちのために月蜜果を採りに行ったことは、責めない。優しいことをしたんだと思う」
セーラは黙って聞いている。
「でも、禁足地付近では標識だけを信用しちゃいけない」
「……はい」
「標識は倒れる。砂に埋まる。誰かが壊すこともある。今回みたいに、砂嵐で境界が分からなくなることもある」
レピオスは窓の外を見る。
西の空は、もう暗くなり始めていた。
「あのあたりは、旧王国時代の汚染がまだ残っている。地面の色、植物の枯れ方、空気の匂い、虫や鳥がいない静けさ。危ない場所には、何かしら兆候がある」
「私は……気づきませんでした」
「うん。君はしっかり者だけど、まだ子どもだ」
セーラの目が揺れる。
レピオスは続けた。
「大人なら気づけたかもしれない。いや、大人だって油断すれば危ない。だからこそ、禁足地の近くへは一人で行かないこと。標識が見えなくても、怪しいと思ったら引き返すこと。いいね」
「……はい」
セーラは涙をこらえながら頷いた。
「もう、行きません」
「よろしい」
レピオスはいつもの調子に戻って、軽く手を叩いた。
「説教終了。患者は泣くと疲れるので、ここから先は楽しい話だけにしよう」
「先生、楽しい話って?」
ハルトが尋ねる。
「たとえば、ゴルドが診療所の前で三回泣いた話」
「三回じゃねぇ! 五回だ!」
「増えてどうするんだい」
シーニャがくすりと笑う。
セーラも、少しだけ笑った。
その笑顔を見て、ハルトは安心したように息を吐いた。
けれど、彼の顔にはまだ疑問が残っていた。
「先生」
「うん?」
「黒熱病ってさ……そんなにいっぱいある病気なのか?」
レピオスの表情が、わずかに変わった。
ハルトは続ける。
「リヴァリアの西の灯台とか、海の近くが禁足地なのは知ってる。でも、おれ、黒熱病になった人って初めて見た。そんなに危ない病気なら、もっとたくさんいるんじゃないのか?」
子どもらしい、まっすぐな疑問だった。
シーニャもセーラも、黙ってレピオスを見る。
ゴルドも腕を組み、珍しく静かになった。
レピオスは少しだけ考え、それから頷いた。
「いい質問だ、ハルト」
「おれ、いい質問した?」
「した。騒がしいわりに、たまに鋭い」
「たまにってなんだよ!」
「褒めてる」
「ぜったい半分しか褒めてない!」
レピオスは薄く笑い、それから声を落とした。
「黒熱病は、民間での呼び名だ。正式には『粒子汚染病』。今回のセーラの症状は、その中でも黒化症状が強い黒蝕型と呼ばれるものに近かった」
「粒子……汚染……」
ハルトが難しそうに繰り返す。
「旧王国時代の汚染地や禁足地には、今も高濃度に汚染された粒子溜まりが残っている。そこへ踏み込んで、空気や水、土埃を体内に入れると発症することがある」
シーニャが不安そうに尋ねる。
「普通に暮らしてても……なるんですか?」
「いいや」
レピオスは首を振った。
「普通に暮らしているだけなら、まず罹らない。リヴァリアの人々が滅多に黒熱病に罹らないのは、みんな禁足地へ近づかないよう教えられているからだ」
「じゃあ、世界中にたくさんいるわけじゃないんだな」
「“普通の場所”には少ない」
レピオスは言った。
「でも、“危ない場所”は世界中にある」
部屋が静かになる。
「旧王国時代の戦場。壊れた炉心施設。廃棄場。暴走機獣や魔獣の巣。汚染された地下水脈。そういう場所に入れば、今でも黒熱病に罹る危険はある」
ゴルドが低く唸る。
「開拓者や採掘屋が倒れるって話は聞くな」
「冒険者もね」
レピオスが頷く。
「貧しい者が危険を承知で古い残骸を拾いに行くこともある。子どもが知らずに踏み込むこともある。だから、黒熱病は珍しい。でも、消えた病気ではない」
セーラは布団を握った。
「私……」
「君は運が悪かった。けれど、次に同じことをしないために覚えておけばいい」
レピオスはそう言って、ハルトを見る。
「そして覚えておくのはセーラだけじゃない。君たち全員だ。禁足地は、ただ怖がらせるための言葉じゃない。人が住める場所と、まだ住んではいけない場所を分ける境界なんだ」
ハルトは真剣な顔で頷いた。
「うん」
「よろしい」
「でもさ、先生」
ハルトはさらに首を傾げる。
「治すには、あの高い薬がないとだめなのか?」
レピオスは、今度はすぐに答えなかった。
眼鏡の奥の目が、少しだけ細くなる。
「現代医学では、基本的にはそうだね」
「基本的には?」
「粒子汚染病の治療には、浄化石を使った浄化薬が必要になる。浄化石は、体内の汚染粒子を吸着して中和する希少な鉱石だ」
「石なのに薬になるのか?」
「正しくは石というよりは結晶体だけど、そのまま食べさせるわけじゃないよ。砕いて、溶かして、薬液にして、患者の状態に合わせて調合する」
レピオスは棚に置かれた空の小瓶を見る。
「ただし、浄化石は高い。採れる場所が限られているし、採りに行くのも危険だ。加工も簡単じゃない」
「だから、ゴルドのおっちゃんの賞金が必要だったんだな」
ハルトが呟く。
ゴルドは鼻を鳴らした。
「必要だったなら使えばいい。金はまた稼げる」
「ゴルド、かっこいい!」
「がっはっは! もっと言え!」
「調子に乗らない」
レピオスが即座に止める。
セーラは小さく頭を下げた。
「本当に、ありがとうございます」
ゴルドはまた泣きそうになったが、今度は必死にこらえた。
レピオスはそんなゴルドを横目で見つつ、静かに言った。
「それに、浄化石があれば誰でも治せるわけじゃない。量を間違えれば身体に負担がかかるし、黒蝕型は進行も早い。調合には知識がいる」
「先生はできるんだよな?」
ハルトが言う。
「一応ね」
「すげえ!」
「もっと尊敬していいよ」
「先生すげえ!」
「うん、よろしい」
シーニャがくすくす笑う。
けれど、レピオスはその笑い声の奥で、ほんの少し視線を落とした。
一応。
そう、自分はできる。
浄化石を使えば、今回のような症例にも対応できる。
旧王国の医学書を読み、古い調合法を学び、何度も失敗して、ようやく扱えるようになった。
けれど、それは結局、古代の石に頼っているということでもある。
浄化石がなければ、セーラはほぼ確実に助からなかった。
ゴルドの賞金がなければ。
ノアがギア・コンチェルトに出なければ。
ハルトが無茶をしようとしなければ。
シーニャが端末を譲ってほしいと頼まなければ。
この子は、今ここで笑っていなかったかもしれない。
「先生?」
セーラが不安そうに見る。
レピオスはすぐに笑みを戻した。
「なんでもない。患者が医者の顔色を読むんじゃないよ。医者の立場がない」
「ごめんなさい」
「謝らなくていい」
レピオスは立ち上がった。
「今日はここまで。セーラは寝る。シーニャも少し休む。ハルトは走らない。ゴルドは泣かない」
「最後だけ無理があるな!」
「努力はしてくれ」
「おう!」
「あと、診療所の中で鍛錬しない」
「なぜ分かった」
「床がきしむ」
ハルトが吹き出した。
シーニャも笑う。
セーラも、今度は少し自然に笑えた。
その笑顔を見て、レピオスは満足げに頷いた。
「よし。笑えるなら、回復は順調だ」
やがて、夜が来た。
ハルトとシーニャは診療所の隣室で眠り、ゴルドは「見張りだ」と言い張って玄関先の椅子に座ったまま寝息を立てていた。
セーラも眠っている。
呼吸は安定していた。
熱も下がっている。
黒斑の広がりも止まった。
レピオスは最後にもう一度脈を確認し、静かに布団を整えた。
「……よく戻ってきたね」
誰に聞かせるでもなく、そう呟く。
それから診療所の奥へ向かった。
表の診療室とは別に、小さな研究部屋がある。
壁には古い医学書。
棚には薬草の束。
粒子反応を見るための硝子器具。
微かに光る鉱石片。
失敗作の薬液が入った瓶。
机の上には、一冊の研究記録が開かれていた。
表紙には、レピオス自身の字で書かれている。
――粒子汚染病に対する非浄化石性治療薬の研究。
レピオスは椅子に座った。
いつもの軽い笑みはない。
机の片隅には、今日使った浄化薬の残渣が入った小瓶が置かれている。
浄化石の白い濁りが、底にわずかに沈んでいた。
セーラは助かった。
それは間違いなく、良いことだ。
けれど。
「……また、負けたな」
静かな部屋に、声が落ちた。
現代医学だけでは届かなかった。
自分の研究は間に合わなかった。
結局、古代文明の石に頭を下げた。
旧文明が残した汚染で子どもが死にかける。
その治療にも、旧文明由来の鉱石が必要になる。
なんて皮肉だろう。
「ほんと、性格の悪い遺産だよ」
レピオスは小瓶を摘まみ上げる。
浄化石。
ありがたい。
必要だ。
今はこれがなければ救えない命がある。
だが、いつまでもそれでいいのか。
禁足地を避けなければ暮らせない。
浄化石がなければ助からない。
古代文明の負の遺産に苦しめられ、その対処まで古代文明の遺物に頼る。
それでは、現代人はずっと過去の手のひらの上だ。
レピオスは、ふっと笑った。
「……癪だねえ」
軽い言葉。
けれど、その声には熱があった。
彼は白衣の袖をまくる。
棚から数本の薬液を取り出し、机の上へ並べた。
黒ずんだ粒子反応を示す試料。
浄化石を使わずに汚染粒子を吸着しようとした、未完成の薬剤。
失敗した調合。
途中まで進んだ仮説。
研究記録の空白ページを開く。
ペンを取る。
「黒熱病だろうが、粒子汚染だろうが」
レピオスは、ゆっくりと書き始めた。
「いつまでも古代の石ころに頭を下げてたまるか」
セーラを救えた。
でも、自分は負けた。
それを認める。
認めた上で、次へ進む。
ノアという少年も、きっと今ごろ、自分の敗北を抱えて王都へ帰っているのだろう。
あの子はまだ若い。
優しすぎる。
自分が倒れても目的を果たせばいい、なんて顔をする。
まったく。
医者の心臓に悪い。
「若い子ばかりに、無茶はさせられないね」
レピオスは小さく息を吐いた。
研究室の窓の外では、海鳴りが続いている。
夜のリヴァリア。
戦いの跡を抱えながらも、眠りにつく港町。
その小さな診療所の奥で、ひとつの灯りだけが、まだ消えずに残っていた。
古代文明の負の遺産を、いつか現代医学で乗り越える。
それは、まだ遠い夢だ。
だが、夢で終わらせるつもりはなかった。
レピオスはペン先を走らせる。
軽薄そうな医者の顔ではなく、
一人の医学者の顔で。
「次は、間に合わせる」
その声は、誰にも届かない。
けれど確かに、夜の診療所に刻まれた。
医学の意地は、静かに燃え続けていた。
――本編第五章へ続く。
※おことわり
本作品は、設定の整理や本文草稿の作成補助・推敲に生成AI(ChatGPT等)を使用しています。使用用途・範囲の詳細については、作品概要ページをご確認ください。




