4.あの、どこの輩ですか。
私は今、学園の演習室に向かっている。
昨日、あのあと徹夜で課題に取り組んだが、結局うまくいかず――クラスで唯一、課題を提出できなかった。
その結果、先生から基礎魔法の練習を言い渡されたのだ。
強制ではないが、空いた時間にやっておけ、というお達しである。
はっきりいって、放課後の補習よりたちが悪い。完全に自分の裁量に任されているので、どこまでやればいいのかわからないのだから。
でも、ここでサボれば、次もついていけなくなるのが目に見えている。
私は先生の言葉に素直に従い、こうして昼休みの終わりに、わざわざ演習室まで練習に来ていた。
(ああ、憂鬱だ……。食後のデザートをゆっくり楽しみたかったのに、こんなところまでちゃんと練習しに来てる私、エラすぎる)
文句を言いつつ、自分で自分を奮い立たせる。
そうでもしないと、やっていられなかった。
演習室は、魔法実習に使われる教室で、各学科の教室塔に設置されている。
魔法学科の演習室は特に頑丈な造りで、壁には特殊な結界が施されている。
中央は何もない広い空間で、周囲の壁際には背もたれのない椅子がぐるりと並んでいる。
普段は共有で使われるが、貸し切りにしたい場合は三十分単位で予約もできる。
今日は予約が入っていなかったため、そのまま中へ足を踏み入れたのだが――
扉を開けた瞬間、違和感に気づいた。
教室の中に、先客がいた。
見た目からして、上級生と思われる男子生徒が三人。
袖のローブのラインは五本――復学したばかりの最終学年、第五学年の生徒だった。
第五学年の知り合いなんて、一人しかいない。
――そして、その一人が、偶然にもそこにいた。
(え……、うそ……っ!? 何かの冗談みたい! 戻ってきて早々に会えるなんて……!)
私がずっと憧れ続けてきた、ダリオ・エンデ先輩。
彼が――偶然にも、演習室の中にいた。
彼と初めて会ってから二年が経っている。
艶のある黒髪は以前よりも長くなり、顔も体つきも大人びている。
けれど、彼のことを見間違えるはずがなかった。
視線は彼を捉えたまま、まるで吸い込まれるかのように足が勝手に先輩のもとへ駆けていく。
向こうが友人たちと一緒にいることなどお構いなしに、震える声で呼びかけた。
「あ、あの、エンデ先輩!」
三人が一斉にこちらを振り向く。
彼らの容赦ない訝し気にこちらを見る視線に一瞬だけ身体がたじろいだ。
しかも上級生の男子生徒というだけで少し怖気づいてしまったけど、それ以上に、エンデ先輩に再び会えた喜びの方が勝っていた。
早る心を落ち着かせつつ、興奮を隠しきれないまま、彼に向かって問いかける。
「わ、私のこと覚えてますか……?
二年前、高等部の森で、あなたの魔法を見せてもらった……」
(私に気づいてくれるかな? 「ネモ?」って驚いてくれる……?)
けれど、期待を胸にした言葉は、最後まで続かなかった。
私の声を遮るように、彼が凄んできたのだ。
「ああん? 誰だ、てめぇ……」
「……っ!?」
彼の口から放たれた言葉に、一瞬で身体が凍りついた。
記憶よりも低い声。
そして、突き刺すような冷たい視線。
張りつけていた笑顔は、そのまま凍りつく。
(あ、あれ……この人、本当にエンデ先輩……?
私、人違い……? 絶対あのときの先輩に見えるのに――)
「あ、え、ええと……」
あまりにも予想外の反応に、心臓が激しく脈を打ち始める。
頭が真っ白になり、思考が追いつかない。
――ただ、嫌な予感だけが、じわりと広がっていった。
「おい、言い方」
先輩と一緒にいた友人らしき人物が、彼をたしなめる。
すると――チッ、と舌打ちを一つ。
彼は鋭い眼光で私を睨みつけながら、乱暴に頭をかいた。
粗暴な仕草は私の心を余計にざわつかせた。
「……誰だか知らねえが、端に寄っとけ。危ないだろうが」
「そこの一年生、本当に危ないから、そこから動かないでね。すぐ終わるから」
先ほど彼をいさめた、薄茶色の髪の先輩が、私に向かって穏やかに声をかける。
「え、はい……」
正直、今すぐにでも演習室から出ていきたかった。
――怖い。
けれど、「動くな」と言われた以上、従うしかない。
ざわつく心を抱えたまま、私は端のベンチに腰を下ろした。
かといって、そこで自主練をする気にもなれず――結局、彼らの様子を見守ることにする。
私が座ったのを確認すると、浅黒い肌の先輩が静かに術式を展開し始めた。
空間に描き出される魔法陣。
その様子を、残りの二人が無言で見つめている。
私もまた、息をひそめながら、展開されていく術式をただ見つめていた。
描き出されたそれは、何かの召喚陣のように見えた。
詠唱が進むにつれ、陣から淡い光がにじみ出していく。
やがて――円陣の中央に、影のようなものが現れた。
(あれって……幻獣?)
影は徐々に輪郭を帯びていく。
そこに見えてきたのは、動物の毛並みだった。
ふわふわと艶のある、真っ黒な体毛。
蜂蜜のようなアンバーの瞳。
ピンと尖った耳。
やや小型のそれは――
(え……あれ、クロじゃん)
とてつもなく、実家で飼っていた犬に似ていた。
「クロ」
気づけば私は、無意識のうちにその名を呼んでいた。
そしてその瞬間――胸が、ドクリと大きな音を立てた。
「は、嘘だろ……!?」
――誰かの驚愕の声と同時に、光が弾けるように消える。
私の鼓動も、光とともにすぐに収まっていた。
そして。
召喚陣の中に、
一匹の真っ黒な子犬が、ポツンと佇んでいた。




