31.夜のお薬とおまじないをお届けします。
足元に、覚えのある温かな毛並みを感じた。
机の下をふと覗き込む。
「……なんでいるんだ」
そこにいたのは、真っ黒な子犬。
あまりにも静かで、気配すら感じなかった。
〈出張サービスだそうだ。まだ寝ないのか?〉
「なんだよ、それ……。今日の分の反省文が終わったら、ベッドに行く」
〈承知した。待つ〉
クロはそのまま机の下で身体を伏せ、
床に顎をつけて、目を閉じた。
(はぁ……)
反省文は、停学中の間、毎日書いて翌日提出しなければならない。
これで三日目。
そろそろネタも尽きてきて、初日よりも明らかに内容は雑になっていた。
(反省文を書いて、感情がコントロールできるようになるなら……何枚でも書いてやるけど)
両手で顔を覆い、そのまま天井を仰ぐ。
身体は疲れているはずなのに、
眠気だけが、まったく訪れない。
(『足が冷えると眠れない』……だっけ)
ふと、彼女の言葉を思い出す。
試すように、床とクロの間に足を差し入れた。
じんわりとした温かさが、足先から伝わってくる。
……少しだけ、呼吸が楽になる気がした。
消灯時間はとっくに過ぎている。
廊下は、物音ひとつしない。
明かりもつけているから、フラッシュバックも起きない。
――ただ。
(眠れないだけ)
気の進まない反省文を書き終え、足を上下に動かす。
するとクロが、耳をぴくりと立て、すん、と鼻を鳴らした。
「そろそろ寝るけど……戻るか?」
〈それでは意味がないだろう。主からも、おまえを寝かしつけてくれと言われている〉
「寝かしつけって……子供か、俺は」
小さく息を吐き、明かりを消す。
クロを抱きかかえたまま、ベッドへ入った。
ほんのりとした獣の匂い。
腕の中の、確かな温もりに感じる鼓動。
そのまま静かに目を閉じる。
こういうとき、クロは何も言わないし、抵抗もしない。
まるで、子犬のぬいぐるみみたいだ。
――今日はまだ、大丈夫。
遠征が終わってすぐの休暇期間。
厄介なことに――
こうしてコイツを抱いているときでさえ、不安が身体中を襲ってきたことが何度もあった。
確かに腕の中にいる。
温かさも、ちゃんとある。
それなのに。
ふとした瞬間に、いなくなるような錯覚に襲われる。
そのたびに、魔力が暴れ出す。
押さえつけるようにして、夜をやり過ごすしかなかった。
――長い、長い夜だった。
(消えてしまえたら、楽なのに)
何度、そう思ったかわからない。
けれど――昨日。
『先輩が消えたら、私が、泣きます』
その言葉が、ふいに胸の奥に浮かぶ。
ああ。
自分のために、泣いてくれる人がいる。
ただ、それだけのことなのに。
胸の奥の、どこかが――少しだけ、軽くなった気がした。
(……まだ、大丈夫)
でも――やっぱり、頭は冴えたままだ。
しばらくしてから、クロに声をかけた。
「ダメだ。やっぱ眠れねぇ。戻っていいぞ……今日は、大丈夫そうだし」
〈大丈夫じゃないやつほど、“大丈夫そう”なんて根拠のないことを言う――アンドリューが言っていた〉
「うるせぇ。憶測じゃなくて、期待を込めて言ってんだよ」
久しぶりに、その名前を聞いた。
けれど――
思ったより、心は凪いでいる。
〈……今日、主が泣いていた〉
「は?」
唐突な一言に、腕の中のクロを見下ろす。
〈シャノンから、昔話を聞いたらしい。おまえが眠れない理由も〉
「はぁぁ!?」
何を勝手なことをしているんだという憤りと、
なんでアイツが泣く必要があるんだという思いが、
ぐちゃぐちゃに入り混じる。
ついでに言えば、シャノンとアイツが一緒にいたという事実すら、気に食わなかった。
〈主が泣いているのを見て、私は、ひどく安心した。ああ、この人間を選んで良かったと〉
クロが鼻をすん、と鳴らし、胸に顔を埋めてくる。
〈私は、おまえを選ばなかった。けれど、それは裏切りではない。
主を選んだからこそ、
おまえとずっといられると思ったんだ。
ただの依存関係ではなく、対等な存在として――〉
「クロ……」
初めて、こいつの本音を聞いた気がした。
俺だって、契約で縛って手元に置いておきたいとは思ってなかった。
こいつのことは、目に見えない絆で結ばれた――家族だと思っていたから。
「……」
口には出さず、抱き締めたまま片手で頭を撫でる。
ゆっくりと、何度も。
しばらくしてクロがもぞりと身体を動かし、腕の中から抜け出した。
〈主が言っていた〉
暗がりの中目を凝らすと、クロは机の下へ向かい何かを咥えて戻ってくる。
そのまま、ぽとりと俺の横に落とした。
(紙袋……?)
〈『困ったときは、プロの手を借りよう』だと。もう一度試してみたらどうだ?〉
「……」
枕元の明かりをつけ、袋の中を確認すると、数日分の睡眠薬が入っていた。
そして、袋の外側に書かれた文字が目に入る。
『絶対効く!』
可愛らしい字で書かれていて、処方した者のものではないことは明らかだった。
思わず、肩の力が抜ける。
なんだよ、これ。おまじないか。
〈前は効かないと言っていたが、もう一度試す価値はあるんじゃないか〉
「どうかな……」
薬は、効かなかった。
飲めば眠気はくるのに、すぐに目が覚めてしまう。
それで、服用するのをやめた。
〈主の気遣いも成分に含まれている〉
「嫌な言い方するな……試さないといけなくなるだろ……」
ベッドから降り、机の上の薬を二錠取り出す。
それを持って水を汲み、一気に飲み込んだ。
〈よし。そのまま横になれ。私は、おまえが寝たら勝手に帰る〉
「ん」
再びベッドに入り、クロを抱き寄せる。
明かりを消し、シーツを被った。
〈――余計なことを考えるな。ここは平和な学園だ〉
「わかってるよ……おやすみ」
頭を空っぽにして、ただクロの温もりだけを感じる。
それから――彼女のおまじないが、効くといいなと願って。
気付けば、朝だった。
腕の中にクロはいない。
それなのに、あのときのような喪失感はなかった。
ただ――
驚きで、しばらくベッドの上から動けなかった。




