30.遠征授業で先輩の身に起こったこと。(3)
◆
それは、敵が一向に動きを見せず、膠着状態が続いていたときのことだった。
すでに日が沈みかけ、今日も動きはなかったかと、皆が野営地点に戻ろうとしていたとき。
『――急報っ!』
突如、全身を負傷した伝令が北部拠点へなだれ込んできた。
その姿に、場の空気が一瞬で張り詰める。
『南部に敵襲あり!』
ざわめきが広がる。
『交戦の末、現在――』
一瞬の間。
『両軍ともに、壊滅状態!』
――頭が、真っ白になった。
南部には、アイツがいる。
『ただちに部隊を二つに分け、現場へ急行せよ!』
『繰り返す――』
(いや、大丈夫だ)
必死に、自分に言い聞かせる。
(アイツにはフェンがいる――あいつだけは、どれだけのことがあっても、無事に逃げ切ってるはずだ)
ざわつく心を押し殺そうとする。
けれど――
身体の震えは、どうしても止まらなかった。
――「生存者不明」という声が耳に届いているはずなのに、
全身が受け入れるのを拒否している。
「エンデ、大丈夫か?」
「……はい。問題ないです」
「こっちはいい。南部のほうが激戦であれば、向こうにおまえの戦力が必要になるかもしらん。向かってくれるか?」
「――はい!」
◆
「結論から言うよ」
ラース先輩の声が、静かに落ちた。
「起点は、アンソニーのいた部隊が全滅してからだ」
「全……滅?」
言葉の意味が、すぐには理解できなかった。
「そう、全滅。
こっちも相当擦り減ってたけど、それは軍内部の話。ガラナ国は――もう、国そのものが虫の息だった」
「兵士たちの統制は明らかに崩れていて、中には子供の姿すらあった。
だからこちらは、停戦協定を持ちかけていたんだ。
あとは、向こうが降参するのを待つだけ――そこまで来ていたはずだった。
――実際、俺たち後方部隊には、学園への帰還命令が出ていた。
ただ、アンソニーがいた南部拠点と、ダリオが配置されていた北部拠点だけは、待機のままだった」
先輩の瞳が、わずかに陰る。
「そして、日暮れ前――南部拠点に、ガラナの兵士たちが現れた。
武器を捨てて、一斉に投降してきたんだ」
ごくり、と喉が鳴る。
「――これで終戦だって、誰もが思った」
ラース先輩は感情を削ぎ落とした声で告げた。
「そして――
兵士たちは人間兵器として、味方もろとも自爆した」
息が止まる。
先輩は下へと視線を伏せた。
「……聞いた話では、『ガラナ万歳!』と叫びながら、一斉に散っていったそうだよ」
(なに、それ)
「……私、それ、聞いてません」
思わず口をついて出た。
「軍のごく一部しか知らない話だ。知らなくて当然だよ」
そう言われても、身体の震えは止まらなかった。
世間ではただ――
“ガラナは捨て身の攻撃に出た”
それだけが報じられていたはずだ。
負けが濃くなって、最後に無茶をしたのだと。
その程度の認識だった。
その裏で、まさか。
自分の学園の先輩たちが、その中にいたなんて。
「北部からの警報を受けて軍が到着したときには、もう辺りは真っ暗だったらしい。
それでも、あちこちに残った火が燃えていて、その光に照らされた光景は……見るに堪えなかったそうだ。
臭いも、鼻が曲がりそうなくらいにひどかったって」
淡々とした声なのに、逆に現実味だけが増していく。
「……俺は現場には行ってない。ダリオとアンソニー以外の生徒たちは、全員その報告を聞かされた。
けれどそれは、一足先に軍から撤退し、なんの危険もない、安全な場所で、だ」
しばらくの沈黙のあと、ラース先輩が小さく息を吐いた。
「……ごめん。少し生々しすぎたかもしれない」
「いえ……大丈夫です」
唇がわずかに震えるのを、必死に抑えた。
「これは、知っておかなきゃいけないことだと、思うので。
この学園の生徒として……魔法学科の後輩として」
ラース先輩は、ほんのわずかに目を細めた。
その沈黙の中で、私は一つだけ引っかかっていたものを口にする。
「あの……一つだけ、いいですか」
「うん?」
「アンソニーさんには、フェンリルがいたんですよね」
クロのことを思い浮かべながら続ける。
「それなのに、どうして……巻き込まれてしまったんでしょうか」
契約獣は、契約主を守る存在のはずだ。
ある程度の攻撃であれば――
クロの結界で、防ぎきれなかったとは思えない。
ラース先輩は、私の疑問にわずかに眉を下げた。
「簡単なことだよ」
そして、静かに告げる。
「――その場に、いなかったんだ」
「……え?」
喉の奥がひやりと冷える。
理解が追いつかない。
(どういうこと……?)
「これは、フェン――クロから聞いた話だ」
ラース先輩は一度、言葉を切った。
「相手兵が投降してきたとき、アンソニーはクロに“伝言”を頼んだらしい」
胸の奥が、ざわりと波立つ。
「……『もうすぐ、戦争が終わる』って」
(……!)
その言葉が、やけに鮮明に響いた。
――終わるはずだった。
「一緒に、その瞬間を見たかったんだろうな」
ぽつりと落ちる声。
「ダリオのところに行って、南部拠点まで連れてきてほしいって……そう頼んだらしい」
そこで、言葉は止まり、ほんの一瞬の沈黙が降りる。
そして――
「……クロが走り出した、その直後だ」
ラース先輩は、目を伏せたまま続けた。
「契約が、途絶えた」
――音が、消えた気がした。
すぐ近くで話しているはずなのに、
分厚い壁を一枚隔てた向こうから聞こえてくるみたいに、すべてが遠い。
契約が切れる、その瞬間。
クロは、何を感じたんだろう。
何もわからないまま、走って。
そして――
辿り着いたときには、もう。
ダリオ先輩は、何を聞かされたのだろう。
どんな顔で、それを受け取ったのだろう。
「……ネモ」
ラース先輩が、こちらを見ていた。
その視線に気づいて頬に触れると、
いつの間にか、涙が一筋流れていた。
いまさら、どうにもできない。
それでも――
ただ、その過去が、どうしようもなく悲しかった。
ラース先輩は、少しだけ言い淀む。
けれど――話を止めることはしなかった。
「……この話には、まだ続きがある」
ローブの袖で涙を拭う私に、静かに続ける。
「北部の兵は一部を残して、南部へ向かった。……ダリオも、その中にいた」
短い沈黙。
「クロは、知らせを伝えたあと……先に、アンソニーの元へ戻っていたらしい。
南部拠点は敵も味方も区別のつかない状態。
……だから、判別して、記録して……処理するしかなかったんだろう。真っ暗な中、残り火を頼りにして」
その言葉の意味を、理解してしまう。
思考が、止まる。
「ダリオは――一人で、それを手伝わされた」
「……っ」
喉が、音を立てた。
「……あいつの火力は、役に立っただろうな」
その一言が、やけに重く落ちる。
暗い中、黙々と行う敵だった者と味方の判別――
そして、焼却処分。
(――ダメだ)
たまらず耳を塞ぎたくなる。
これ以上は聞きたくない。
なのに。
「……でも、それ以上に堪えたのは――
アンソニーの処理だったんだろう」
告げられた言葉に、空気が凍りついた気がした。
「……家族みたいな存在だったから」
小さく付け足されるその一言が、胸に深く刺さる。
「……こればっかりは、本人に聞かないと分からないけどね」
ラース先輩のその言葉を最後に、
恐ろしいほどの静寂が演習室に沈み込んだ。
返す言葉なんて、何ひとつ思いつかない。
ただ――さっきまで止まっていたはずの涙が、再び静かにこぼれ落ちた。
「ごめん。泣かせようと思って話したわけじゃないんだ」
「……わかってます」
事実を、そのまま伝えてくれただけだ。
謝ってもらう理由なんて、どこにもない。
ただ、私が――勝手に、受け止めきれなかっただけ。
「遠征から帰ってきて、俺たち第五学年は全員、休暇期間中に強制的にカウンセリングを受けさせられた」
「みんな、それぞれ傷を抱えて帰ってきたんだ。俺も受けたし……そして、他のやつらは俺も含め、そのままカウンセリングを卒業していった」
一拍置いて、ラース先輩が続ける。
「――でも、アイツだけは、まだ取り残されたままだ」
胸が、ぎゅっと締め付けられる。
休暇期間は、一か月のはずだった。
その間に立ち直って、何事もなかったかのように戻っていった先輩たち。
けれど――
「……エンデ先輩は、その休暇期間を、一人でどう過ごしていたんでしょうか……」
「……最初は、俺の家に来てもらったよ」
ラース先輩は、少し遠くを見るように言った。
「あまりにボロボロで、放っておけなかった。家族も昔からダリオを知ってたし。
でも、すぐ寮に戻った。……一人になりたかったんだと思う」
ほんの少しだけ、声が沈む。
「今思えば――無理やりでも引き止めればよかった……後悔してる」
ラース先輩の悔しさが滲む表情に、かける言葉は見つからなかった。
ダリオ先輩は、寮に戻ってから――
クロを、心の拠り所にしていたに違いない。
同じ家族の一員として。
同じ家族を失った、たった一人の“仲間”として。
――なのに。
胸の奥が、ひやりと冷たくなる。
(私が……奪ってしまった)
クロと永年契約を交わしたのは、先輩たちが復学した初日。
もし――
あの日からずっと、眠れない夜を過ごしていたのだとしたら。
喉の奥が、ぎゅっと締め付けられる。
私にできることはなんだろう。
償い、なんて言葉で片付けていいのかも、わからない。
それでもせめて――
できる限りのことを、彼に。
どうしようもない焦燥感とともに、
胸の奥は、鉛のように沈み続けていた。




