第107話 え、パパが勇者!? 海底の試練はトラウマ級の精神攻撃!? 完璧な「お姉ちゃん」を追い詰める、非情な二択に頭がパンクしちゃうー!?
「……え?」
あんなが異変に気づいたとき、そこは海底王国の幻想的な青の世界ではなかった。
鼓膜を震わせていた水の音は止み、代わりに聞こえてきたのは、古びた壁時計が刻む規則正しい「カチ、カチ」という生活の音。
夕飯の支度で使い込まれた匂いと、日向に干した布団のような、どうしようもなく懐かしい「神崎家」の匂いだった。
あんな「ここ……家?」
戸惑いとともに視線を落とすと、そこには見覚えのある傷がついたフローリングがあった。
パパが昔、家具を運ぼうとして派手に転んだ時に付けた、あの傷だ。
みゆ(幼少期)「……お姉ちゃん……」
背後から届いたか細い声に、あんなの心臓が、肋骨を内側から叩くような激しさで跳ねた。
振り返れば、そこにはまだ五歳にも満たない、頼りなげな姿で床に倒れ伏す、かつてのみゆがいた。
膝をすりむき、大きな瞳に涙を溜めて、ただひたすらに助けを求めている。
あんな「みゆ!? どうしたの、しっかりして!」
駆け寄ろうとした瞬間、今度は反対側の廊下から、押し殺したような苦しげな吐息が漏れた。
みゆ(現在)「……お姉ちゃん……」
反射的に視線を転じれば、そこには高校生になった今のみゆがいた。
だが、その様子はいつもと決定的に違っていた。
腹部を押さえ、蒼白な顔で壁に背を預けている彼女の瞳は、理知的な光を失い、恐怖に激しく揺れている。
無敵の論理を誇るはずの妹が、まるで迷子の子供のように、震える声で救いを求めていた。
あんな「……え……」
理解が追いつかない。
過去の、物理的に無力な妹。
そして現在の、精神的に崩壊し、今まさに消えてしまいそうな妹。
どちらも、あんながいなければ立ち上がることさえできないほど、脆く、傷ついていた。
さらに、あんな自身の身体にも異変が起きていた。
立っているのが不思議なほどの激痛が全身を走り、視界がチカチカと明滅する。
(……私まで、倒れそう……)
もし自分がここで力尽きれば、この二人の妹を救える者は誰もいなくなる。
天の声「――選択してください。優先対象を、ひとつ」
どこからか声が響き渡る。
そしてこの空間の残酷なルールを淡々と告げる。
感情を一切排したその声は、あんなの耳元で冷たく囁いた。
天の声「両方の救助は不可能。時間制限あり。自分を優先すれば、あなたの命と安全だけは保証されます。それが、最も確実な生存戦略です」
非情な宣告があんなを追い詰める。
過去の妹を救えば、現在の妹は絶望の中で消える。
現在の妹を救えば、過去の妹の叫びは永遠に止まらない。
自分を救わなければ、共倒れになるリスクは跳ね上がる。
正解など、どこにもない。
どの道を選んでも、あんなは何かを決定的に損なうことになる。
「家族の土台」として、常に笑顔でパパや妹を支えてきた彼女の芯が、内側からミシリと音を立てて軋んでいた。
あんな(……私が楽になれば。この地獄のような選択から逃げられるの?)
(でも、私が私を守るために、この子たちを見捨てるなんて……)
一瞬の沈黙。
それはあんなにとって、永遠にも似た停滞だった。
「姉」であることは、誇りであると同時に、自分を後回しにし続けるという終わりのない献身の連続でもあった。
パパの天然をフォローし、家計をやりくりし、妹の成長を見守る。
その全てを投げ出せば、自分という一人の少女は救われるのかもしれない。
あんな「……っ!」
あんなは強く頭を振り、自分の中に芽生えた逃避欲を、噛み殺すようにして捨てた。
誰かを救うということは、その結果に責任を持つということだ。
選ばないことは、救わないことと同じだ。
たとえ、その選択が自分の心を一生傷つけることになったとしても、彼女は「姉」であることをやめられなかった。
あんな「……決まってます。私は――」
あんなは、震える足で一歩を踏み出した。
幼い姿のみゆへと駆け寄る。
あんな「大丈夫。この子は――今、私が守る番。お姉ちゃんが、守るから!」
その小さな、羽毛のように軽い体を抱き上げる。
同時に、視線の先で「現在のみゆ」が、震える声で
「ごめんなさい、お姉ちゃん……」
と呟き、ゆっくりと霧のように消えていくのが見えた。
選ぶということは、背負うこと。
現在の妹の「今」という救いを、自分の手で拒絶したという事実が、鋭い刃となって心臓をえぐる。
溢れ出しそうになる涙を、あんなは奥歯を噛み締めて堪えた。
あんな「……ごめんね、みゆ」
腕の中の幼い妹を抱きしめたまま、あんなは誰にも届かないほど小さな声で、ぽつりと呟いた。
あんな「……少しくらい、甘えても……いいよね」
それは、消えゆく今の妹に許しを請う言葉だったのか。
それとも、限界を迎えながらも立ち続ける自分自身に向けた、微かな嘆きだったのか。
その言葉が空気に溶けた瞬間、神崎家の風景は、色彩を失い、ガラス細工のように音を立てて砕け散った。
気づけば、そこは元の海底王国だった。
海底の冷たい空気が、現実へ引き戻すように頬を撫でた。
あんな「……はぁ、はぁ……っ」
あんなは、激しい動悸を抑えながら自分の両手を見つめた。
そこには、もう幼い妹の柔らかな重みも、崩れ落ちていた現在の妹の感触も残っていない。
幻影だったのだ……すべては。
だが、胸の奥に残ったあの感覚だけは、どうしても消えてくれなかった。
一瞬だけ「自分」を優先しようとした己の弱さ。
そして、どちらも正解であるはずの選択肢の中で、一つの命を「選ばざるを得なかった」感覚。
あんな「……まだ、誰も戻ってないのね」
ゆっくりと深呼吸を繰り返し、肺に冷たい空気を取り込む。
乱れた前髪をかき上げ、あんなはいつもの「しっかり者のお姉ちゃん」の仮面を、もう一度だけ、少し強引に被り直した。
あんな「……私は、お姉ちゃんですから。これくらい、なんてことないわよ」
そう呟きながら、あんなは無意識に、パパがいつも適当に撫でてくれる自分の頭に手をやった。
(……パパならきっと、『どっちも助ければいいじゃん』とか、無茶苦茶なこと言うんだろうな)
そんなあり得ない空想が、今は少しだけ、冷え切った心を温めてくれた。
その瞳の奥には、消えない「傷跡」ではなく
「誰かを守り抜くと決めた者の、鋭くも静かな光」が宿っている。
それは、彼女が家族の「土台」として生きていくための、覚悟の証。
誰にも言えないその痛みを、彼女は弱さとして捨てるのではなく、家族を守り抜くための静かな「誓い」として、その胸の奥深くに抱き締めた。
いつかパパのあきれるぐらいの笑顔や、みゆの思いやりが、この夜の震えを笑い話に変えてくれる日が来る。
その日が来るまで、彼女はこの重みを抱えたまま、前を向くと決めたのだ。
こうして――
あんなは試練を、自らの「責任」という名の、あまりにも重く、気高い強さで乗り越えた。 ツッコミどころ満載な、家族の異世界スローライフ(?)は、
彼女が背負ったその「重み」さえも、いつか家族全員で分かち合うための物語へと続いていく。
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