第八十五話『眠れない夜に』
獣車は無言に包まれていた。発言権は屋根上に跳ねる雨ばかりで、ブランクは目の前で魂を抜かれたように虚空を見つめる少女に、かけられる言葉が見つからなかった。いや、厳密には当たり障りのない会話で切り口を見つけようとは試みたのだ。しかし帰ってくる言葉といえば、「うん」と短いふた文字だけである。
中にいる人間は二人いるというのに、ぽつんと獣車に揺られる様子は、まさに上の空で、心ここに在らずだ。人が二人いて話せることが一つもない。緘黙に口を閉ざすエレノアは、麗しい見目も相まって物言わぬ人形のようだ。
獣車はそのまま屋敷に戻り、ブランクは屋根裏部屋へ戻った。エレノアは一人にしてと、自室に戻り、ブランクはその歯痒さに苛まれていた。
「クソッ!」
ブランクは怒りのままに頭を壁に打ちつけた。それをちらと見遣ったクロエが「荒れてるね」と他人事に窓の外を見ながらそっとこぼす。ブランクはこれが落ち着いてられるもんかと息巻いた。
「エレノアがどんな目に遭ったか……君は知らないだろ!」
ブランクが肩で息をしながらそう力説すると、クロエは悲しそうに瞳を伏せた。
「知らないよ。知るがわけない。ボクがどんな気持ちでここでお留守番してるのか……キミにわかるの?」
「……ごめん」
八つ当たりだ。自分よりも長くいるクロエのことを思えば、ブランクが自分の憤りがいかに見当違いなのかを思い知らされた。そして、その残酷さに。水槽の外を眺める魚のように、あるいは空を見つめる鶏のように。クロエはベッドの上から窓の外をそぞろに眺めている。足の不自由な彼女に、外の事情など知りようもないというのに。自分は何と言ったのか。
「ちょっと、頭を冷やしてくる……」
今日は帰らないかも、と付け足して。クロエは何も言わなかった。ブランクも自分の醜さから目を背けたくて駆け出した。
後味の悪さを胸に噛みしめ、ブランクはトボトボと屋敷の中をあてもなく歩く。屋敷の中に人影は見当たらず、反響だけが残る様など、まるで幽霊屋敷のようだ。ブランクは物のついでにとサラの手先が潜んでいないかと神経を尖らせていたものの、結局は取り越し苦労に終わってしまった。
広間のある玄関口から外を覗くとしおれた花の植わった庭が見える。先日世話をした花や、毒に触れて枯れてしまった花。庭師のいなくなった花壇では、花と雑草たちによる、食うか食われるかの生存戦略が行われている。顔色を見るに、やや花が劣勢であるか。
ブランクは雑草を引き抜き時間を潰した。とりあえず何かしていたかった。先日も気持ちを落ち着けるためにしていたが、蜂に追いかけられた時は肝を冷やしたものだった。
「……はあ」
もう何度目のため息だろう。屋敷に帰ってきてからというものの、こればかりだ。クロエに八つ当たりしてからはその頻度も二倍に増えて、さすがに辟易してくる。いつかに陰気だと言われた過去を思い出すと、もう一つおまけに出てきた。
「悪いことは重なるっていうけどさ……」
ブランクはどうにも納得ができなかった。しかし感謝もしている。あそこで孤児院の少年を殴ってしまえば、エレノアの領主としての評判も地に落ちただろう。彼女にどんな思惑があったとて、それは前向きに(腹立たしくはあったが)捉えられた。
だが続く町工場や商会での出来事はどうか。まるで世界がエレノアを殺しにかかっているようだ。この一連の出来事の影に、サラの姿が見え隠れする。それだけは間違いなかった。
「あの時、無理にでも止めていれば……」
そう思う心とは裏腹に、ブランクはそれが難しいことを知っていた。彼女の固い意志は、きっと何度あの岐路に立とうとも、同じ道を選んでいた。だから腹の内からそう信じることができない。だから──時間を戻せないのだ。
(エレノア……)
彼女は今、どんな思いでいるだろうか。信じていた全てのものに裏切られて。現実が足元から崩れ去っていくのを、彼女はどんな気持ちで受け止めたのだろうか。
「あ」
一人にして──。それだけを言い残して自室へ消えた少女。果たして、彼女を一人にして大丈夫だったのだろうか。その疑念が芽吹くと、ブランクはいても立ってもいられなくて、屋敷に向かって駆け出していた。
「エレノア、無事!?」
息も絶え絶えで、肩が上下する。ノックも何回したから分からない。不作法を咎められそうだなどと思っていたものの、返事がない。
「エレノア、開ける──」よと言い切るよりも早いか遅いか。扉はこん、と小さく鳴った。その音よりも小さな声が「あけないで」とくぐもって聞こえる。
「良かった……無事だったんだね。ちょっと不安だったからさ」
「……うん」
また同じ返事ではある。しかし取り急ぎブランクは、彼女が無事であることにホッとした。物語によくある悲劇のヒロインのように、自決などという最悪手を選択していなくて、本当に良かったと。心底胸を撫で下ろしていた。
「えっとさ、僕で良かったら話したいことがあれば聞くし、相談とか乗るよ。ちょっと話すだけでもスッキリすることとかあるしさ。どう、話してみない?」
ブランクにとって永遠を思わせるすこしの間を置いて。「だいじょうぶ」と小さな拒絶が返ってきた。ブランクはすこし胸を痛めながらも「そっか」と明るい声で振る舞った。
「僕、実は今日クロエと喧嘩しちゃってさ。今日は屋根裏部屋じゃなくて客間を借りるから、困ったことがあったらいつでも頼ってよ!」
「……うん。ありがとう」
お礼の言葉が加わって、ブランクはひとまず溜飲が下がった。一番は元気な顔を見ることであったが、本人が望まないのであればこれ以上は自分のわがままになってしまう。
「それじゃあ、また」
「……」返事はなかった。代わりに扉の向こうから、シュルシュルと何かを引きずるような音が聞こえた。
「さて、どうしようかな……」
屋敷の外は日も暮れだして徐々に屋内が暗がりに包まれていく。ブランクはそっと人差し指を立てた。
「ピカルプ」ぼうっと指先に明かりが灯る。それらは夕日の光と入り混じり、やがて暗闇が群がるとブランクの行く先をすこしだけ照らしてくれる。
「もう一周して眠るか……」
今日は色々あった。食材がないために、グエンが騎獣の解体をしていたらしい。その苦肉の策は当然エレノアの指示ではあったが、当のエレノアといえば、その騎獣を食べることを食欲がないからと断ったようだった。
いつかにエレノアがかわいがっていた白い騎獣だ。それを今いるグエンやクロエ、自分を食べさせるために解体するよう、グエンに頼んだのだ。当然ブランクも食は進まなかった。今でもお腹がぐうと鳴る。
「……本当に誰もいないな」
分かりやすく豪快ないびきを立ててるグエン以外、屋敷の中には人の気配がない。掃除の手入れが行き届かなくなった天井には、とうとう蜘蛛が巣を張り出した。近いうちに蜘蛛の方が人より多くなるのだろうなとブランクは思った。
「はあ、疲れた……」
屋敷を見て回ったブランクは、どかっとベッドに寝転んだ。屋根裏部屋より上等な素材は、ブランクを容易く飲み込み、吐き出した。
「すごいな、これ……」
どこまでも柔らかく、上質な眠りをお届けしそうだった。ブランクは肌に触れるなめらかさに感嘆しながらも、考えることが多くて到底眠ってなどいられなかった。
(何にしても、生きていて良かったな……)
差し当たって、一番はそれだ。死んでしまっては取り返しようがない。時間を戻せば話は別であるが、それでも彼女が死んでしまうところなど見たくはないに決まっている。
(そうだ。生きていなければ、人生は何も始まらないんだ)
本人が生きていること。心の支えが生きていること。彼女は──エレノアはその心の支えを失って、もはや生きながらにして死んでいるに等しい。過去に縛られて、未来を閉ざし、年相応の幸せも望まずに果てていく殉教者。彼女はもっと、普通に笑っているべきなのだ。
(だからこそ僕は──あの選択を正しいと思いたい)
彼女を救う選択。単に家族を諦めたわけではない。ウィルやジャンは、きっと生きている。生きてさえいれば、きっとどこかで逢えるはずだ。
しかしエレノアの過去はどうか。彼女は自分のエゴによって周囲の人間を破滅させ、命を奪ったと思っている。実際過去に何があったかなど、詳しいところは聞いていない。ただ、そこにある普遍の事実は『エレノアの親しい人たちは、ことごとく死んでしまった』という最悪の現実だけが横たわっている。
「手、震えてたな……」
ブランクは今朝の出来事を思い出した。勇み足に自分の手を引く少女の小さな手のひらが、震えていたことを。あれが全てだ。蜘蛛の糸のように細い『自分という命綱』にエレノアは縋っている。嬉しい反面、それだけ後がないという危うさが垣間見える。
「……喉が渇いてきたな。水でも汲んでこよう」
井戸は中庭にある。ブランクはベッドから跳ね起きて、扉を開けた。すると、
「うわぁっ!?」
ぼうっと暗闇に立ち尽くす何かがいて、ブランクは思わず飛び退いた。腰元に剣を求めた手は空を掴み、肩透かしに終わる。仕方なしに拳を構えながら「誰?」とブランクは尋ねる。
(返事がない……?)
サラの手先か、と思った矢先。窓の外から差し込む月の光が、その正体をあらわにした。
「ねむれないの……」
「……エレノア?」
暗闇に浮かび上がってくるのは亜麻色の髪をした少女だった。
手には枕を抱え、シーツをかぶって引きずり、その下に着ているのは寝巻きのワンピース。目元が赤く腫れぼったくなっていて、声は掠れがかって喉元で詰まっており、見るにも聞くにも痛々しい。あれからずっと泣いていたのか。ブランクは戦慄した。
「……入りなよ」
ブランクが努めて柔らかい声音でそう促すと、エレノアはこくりと黙って頷いた。シュルシュルとシーツが床を引きずられている。ブランクが音の正体に気を取られていると──、
「えっ」
エレノアは椅子ではなく、ブランクが寝ていたベッドに倒れ込んだ。そうして呆気に取られているうちに、エレノアは着ていたシーツを丸めこんで、瞬く間にブランクの寝床を占領してしまった。
「えっと……エレノア?」
「……」返事がない。代わりに、警戒した野生動物のように、シーツがモゴモゴと動く。
「僕、違うとこで寝る?」
ブランクが気を利かせてそういうのだが、エレノアは間髪入れずに「だめ」と言い切った。
「ここは、わたしの屋敷なのだから、どこでわたしが寝ても自由でしょ」
だから──と。エレノアはシーツから手を伸ばす。
「手を握って」
あの時みたいに、と続けた。あの時。ブランクが、エレノアのベッドで眠ってしまった時のことだろうか。ブランクは「それは──」と言いかけて。
「……!」ブランクは、少女の手が震えていることに気がついた。
(ああ。不安なんだろうな……)
ブランクはすぐに気がついた。それはそうだろう。こうなってくると、彼女に残された手立ては時間を遡ること以外にはあり得ない。その鍵を握る自分が、朝起きていなければどうなるだろう。生きた心地が到底しないだろう。その朝を想像すると、彼女はおちおち眠ってなどいられなかったのだ。
「ごめん、もう少しだけそっちいいかな?」
もしかすると譲ってくれないかも、などと思うのだが、エレノアはすんなり場所を開けた。
「はい」お姫様、と軽口を叩く気にはなれなかったが、意図は伝わったらしい。シーツの中から伸びた手は、恐る恐るブランクの指先に触れると、キュッとそれを握りしめた。
(さて……)
先ほどまで殺伐とした思考が渦巻いていた。それが今では、彼女がベッドにいるだけで、心が華やいでいる。自分もなんと単純な人間なのかと思わず苦笑が浮かぶ。
「ブランク……」
鳴った腹の虫に起こしてしまったのかとギョッとするのだが、その後はまたすぐに寝息が続いた。その後、どれだけ時間が経てども、胸の高鳴りが収まることはなかった。ブランクは自分の置かれた状況に、とうとう気がついた。
(これは……いよいよ寝れないぞ……)
鼻腔をくすぐる甘い香り。柔らかくてすべすべとした手が自分を掴んで離さない。自分の温もりと彼女の温もりとが循環し、体が熱を帯びていく。顔が熱い。そんな徹夜を覚悟したブランクの決意など意にも介さず、シーツの塊からは規則正しい寝息が聞こえていた。




