第八十六話『夜になった日』
「起きて」「うわっ!!」ブランクはいきなり吹き飛ばされた。ごろごろ転がり、寝ていた場所から床へと落下する。何が起きたのかと状況を確認すると、すでに朝日が昇って久しいらしく、外はいつの間にか明るくなっていた。
「そろそろ起きてくれないと困るわ」
「お、おはよ……」
おはよう、と毅然と応える彼女の姿があまりにもいつも通り過ぎて。服装もいつもの礼服に戻っているので、よもや昨日のことは夢だったのでは、とも思うのだが──。
(あっ……)
ベッドには二人分のシーツがあり、それが夢でなかったと気がついた。
「昨日はお邪魔したわね。……お世話になった?」
違うわね……とブツブツ何度も自分で確認してる姿に、ブランクは思わず笑ってしまった。
「……何がおかしいのよ」
むすうっとふくれっ面でむくれるものだから、ブランクはすかさず「いや、違うんだ」と間髪入れずの否定をする。
「嬉しくてさ」
「……何が?」
愛らしく首を傾げる少女。ブランクの胸には、言い知れぬ満足感があった。昨晩の彼女は明らかに限界だった。擦り切れそうな布のようなボロボロの精神で、いつ泡を吹いて倒れてもおかしくはなかった。
「あなた……ニヤニヤしてて気持ち悪いわね」
「ふふっ、そうだね」
「……あなた、やっぱりとんだ変態だわ」
彼女は闇を乗り越えた。深い眠りに落ちて、その傷を癒して朝を迎えた。それは、自分が彼女の夜になることができた証であるからだ。
「さっさと理由を言いなさいよ、ご主人様の命令よ?」
「やだよ、それに僕は形だけの召使いなんでしょ?」
ブランクが意地悪く口角を釣り上げると、エレノアはむむむと口を尖らせた。
「あなた、とってもいい性格してるわね。尊敬しちゃう。しないけど」
「どっちなの?」
ブランクがそうやってからかうと、エレノアはいいから、とずいと歩み寄る。
「教えなさいよ、早く」
「んー。あっ」
ブランクは寝る前の出来事を思い出した。
「確か……僕の名前を呼んでたかな」
「なっ……!!」
エレノアの顔が一気に真っ赤になった。それはもう熟れた果実のように。そして次の瞬間、対照的にブランクの顔が真っ青になった。大気が悲鳴をあげて避けた正拳が、顔面めがけてやってきたからだ。ブランクは鼓動を猛ダッシュさせながら、冷や汗かいた。
「な、何すんのさ!」
「忘れなさい、今すぐ。いいえ、忘れさせてあげる!」
エレノアはずんずんとブランクに歩み寄ってくる。ブランクはぞっとした。巨大な魔物も殴り飛ばせる彼女の拳を受けるなど、自分の頭など卵の殻のように容易く割れるだろう。
「ちょ、ちょっと水汲んでくる!!」
「待ちなさいッ!!」
扉を蹴破った少年と少女は、たちまち屋敷の中で追いかけっこを始めた。それを見届けたグエンがぽかんと大口開けて固まる。それから、一言。
「まあ、なんだ。一件落着ってやつか?」
屋敷の中はしばらく賑やかだった。




