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The Alter Story  作者: 水落護
第十章『夜になった日』
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第八十三話『つみ去られた成果』

 獣車の中。重い沈黙が続いている。ブランクはエレノアの額を布で拭きながら、深い失意に脳を撫ぜられた。


「ね、だから言ったでしょう? 鬼人族(ラルヴァ)は傷の治りが早いの。わたしはなんともないわっ」


 力こぶを見せながら、少女は気丈に笑う。その美しい、芸術的なまでの笑顔は、ひと目で作り物だとブランクに思わせた。しかし、ブランクは何も言わない。言えない。口を開けば、あの少年への罵詈雑言が、煮え繰り返りそうなほど腹の底で渦巻き、沸き立っているからだ。


「ブランク、そんなに怖い顔をしていては、まるでわたしが責められているようだわ」


「……ごめん」ブランクが謝罪を述べると、少女の顔が途端に顔が曇った。


「あなたに謝らせたかったわけではないの。……いいえ、それも違うわね。きっと、わたしが不甲斐ないから──」「それは違うッ!!」


 絶対に。と続けて。しんと静まり返った車内には、車輪が転がる音だけが響いた。跳ねた石がぶつかるような音がして、車窓の向こうでランツがすこしこちらを気にしたか。しかし、フイと視線を先へと戻し、我関せずを決め込んだ。今はそれがありがたかった。その反面、助け舟が欲しかったとも思うのだが、とにかくブランクは、目の前にいる吹っ切れたように振る舞っている少女の額をもう一度指で撫で、目を強く絞った。


「くすぐったいわ。あまりむやみやたらと未婚の乙女の顔に触れるものではないわよ?」


「……ごめん」ブランクは謝る。


 何に? 自分は何に謝ってる? 分からない。ただ、触れた先の肌は何事もなかったかのように美しく、しかし確かに拭き取るまでは血の流れた跡があり。ここに傷があったのが、まるで嘘のようだ。しかし確かにあったのだ。


「あの子たちはまだ善悪の区別がつかないのよ。仕方ないわ」


 仕方ない。仕方ない? 彼女が悪意に晒されるのが、仕方ない?


「そもそもわたしがしっかり財政を管理できていれば、事実彼の両親は彼を手放さなかったはずだし」

「……この話、もうやめようよ」


 耳が痛かった。すこし間を置いて。エレノアはそうね、と飲み込んだ。


 彼女は何故こんな涼しい顔をしていられるのか。今も子どもに石を投げられたことよりも、孤児院の子どもたちが成長していたことを楽しそうに語っている。自分はそれに相槌を打つことしかできない。


「湿っぽい空気になってしまったわね。さっ、切り替え切り替え!」


 無力だ。ああ、自分はなんて無力なんだろう。閉ざされた仮面の下にある本当の思いを、その腹の内を、探ることすらできやしないのだ。ブランクは笑顔の裏で自分に腹が立った。


「次に立ち寄る場所は町工場なの。あなたの協力で解放できた奴隷商人の、その被害者たちの働き先よ」


 しっかりやれてるかしら。と我が子を思うように案じている様は、まるで聖母のようだ。ブランクは取り直して「あの子たちかあ」と思いを膨らませる。


 こうして見ると、エレノアは奴隷たちを解放するだけでなく、働き口の紹介までしているのだ。なんと慈しみのある少女なのだろう、と舌を巻く。だが次の瞬間には、やはり先ほど投げつけられた悪意がブランクの胸を掠めてしまう。


「どんな仕事をしているの?」


「服飾の仕事をしているの。縫製や設計は専門的な知識が必要だけれど、染色や乾燥などは現場監督さえいれば人手があって困るものではないもの。そこに充てがったのよ」

「そっか、やっぱエレノアはすごいよ!」「ふふん」


 そうでしょう? と得意げに大きな胸を張るエレノアに、ブランクは喉奥に鳴りを潜めていた言葉を肺の向こうへと押し込んだ。


 そうだ。自分は彼女の夜になると決めたのだ。孤高に気高くお月様のように夜をあまねく照らす彼女を支えるのならば、余計な言葉で彼女の顔にかげりを呼ぶなど、あってはならない。


 そうだ。そのはずだ。絶対──。


 そうこうしている内に獣車はその速度を緩めた。同じ町中にあるのだから当然ではあるのだが、早い到着だな、とブランクは思った。


 もうすこしエレノアと語らっていたかった。この空間を共有していたかった。そう思っていたのは自分だけなのか、少女は亜麻色の髪を躍らせながら、扉が開くや否や浮き足立って降車する。


「あっ、待ってよ!」


 いくらかの寂しさを胸に抱きながら。ブランクは、降車の補助をする隙すら与えられず、お転婆に駆け出していった主人へ手を伸ばした。


(あっ……そうか)


 ブランクは気がついた。まるで逃げ去るようなその姿に、少女の心が一体どれほど傷つけられていたのかを。そうでもなければ、体面を気にするはずの彼女が、そのような身の振り方を民の目に映る場所でするはずなどないのだから。


「あっ……」案の定そのお姫様は、どこかバツの悪そうな顔をしておずおずと戻ってくる。


「早くしてよ。今日は忙しいのだから」

「雨垂れの井戸掘りじゃない、ね」


 分かってるじゃない、と少女は不服ながらもどこか満足げだ。ブランクがそんな彼女の後について行こうとすると、


「おい、おい」

「ん?」


 ブランクはランツに呼びかけられる。その周囲の視線をはばかるような姿に、ブランクはランツが小声で喋るなんて珍しいなと、その耳打ちを受けた。しかし、その内容はブランクの中に燻っていた胸騒ぎに油を注ぐようなものだった。


「獣車に石投げてきた奴がいる。気ぃつけろよ」

「……それ、ほんと?」


 ああ、さっさと行けと促されて。ブランクは礼を述べると、駆け足でエレノアの後を追う。


 獣車に石? きっとランツが振り返っていた時だ。ブランクは無性に腹が立った。確かにこの町は一目見るからに恵まれた豊かさはないと思った。しかしその不満を、事もあろうに今こうして民のために邁進している彼女に向けて八つ当たりするなど、性根まで腐り切ってしまっている。心の貧しさほど醜いものはない。


(僕が守らなきゃ、彼女を……)


 先行く少女が健気に笑っている。泥中に咲くこの花を絶やさぬよう、ブランクは一層気を引き締めて町中まちじゅうへ気を尖らせた。


 幸い、ランツの忠告したようなことは起きなかった。エレノアは目的地で足を止めると、「あら。変ね」とその家屋の前で首を傾げた。


「迎えの者がいるはずなのに。今日は伺うと言ってあったのだけれど」


 その門戸は固く閉ざされている。ブランクはランツの忠告を思い返し、何か町の人からの嫌がらせがあったのかもしれない、と思った。すぐさま周囲への警戒を再び強めると、エレノアは門戸にある鉄輪を打ちつけ、もし、と数回ノックをした。


「エレノア・ラーゼンヴァルグよ。門を開けなさい」


 毅然とした態度で振る舞うその様に、ブランクはどこか羨望を覚えた。自信に満ち溢れた凛々しい物言いだ。自分も見習いたいと思っているのだが、それも束の間のことだ。


「……返事がない?」


 どれだけ待てど、あちらから返事がない。どこからか閑古鳥の声でも聞こえてくるようだ。そこで焦りを覚えたのか、エレノアは再び戸を叩く。


「伯爵の名を以って命じます。今すぐここを開けなさい」


 鈴の澄むほど高らかな声がしんと響き渡る。しかし、扉は何の反応も示さない。歯を食いしばる音が聞こえた。エレノアからだ。


「聞こえないの? ここを開けて!」


 食い下がるエレノアが、痺れを切らして直接拳で戸を叩き出した時だった。エレノアが戸を叩くよりもさらに大きな音が、向こう側から響いた。まるで戸を蹴飛ばしたような乱暴な音だった。エレノアはそれに圧倒されて、肩を跳ねさせ退いた。ブランクが少女の華奢な肩を受け止めると、固い無骨な木の扉の向こうからは、恐ろしいほど冷たい声が聞こえてきた。


「帰ってくれ」「えっ……」


 少女の声が揺れる。風が二人の気を宥めた。ブランクとエレノアは互いに顔を合わせて、ともすれば聞き間違いかと視線を交わして確かめる。二人は同時に首を振った。エレノアは眉根を寄せて、扉を叩いた。


「あなたね、ふざけている場合ではないの! 今日は商会への納品も兼ねてこちらまで来訪したのだから」


 エレノアはそうだわ、と調子づいて続ける。


「工場長に会わせて。彼に取り次いでくれたらあなたのおふざけも不問にしてあげる。そうすれば、きっとあなたもどれだけ自分の行いが恥ずかしかったか分かるはず」


 だから──と言い切るよりも早く。エレノアは、開いた扉に吹き飛ばされた。短い悲鳴が上がり、ブランクは思わず心が粟立あわだった。気が気でなく、鼻にツンと刺さる何かを感じた。何が起きているのか分からない。それはエレノアも同じようで、二人は一様に開いた扉の先に立つ、大柄な男に目を奪われた。


「キャンキャンうるせぇんだよ、この〝売国奴〟がッ!!」


 言葉を失った。大男は一息吸うと、そんな罵声を浴びせてきた。ブランクはその異常さに気づくと、縮み上がり、よろけた少女の肩を抱き寄せ、腰にした剣の柄に手を触れる。大男は舌打ちをすると、再び戸を閉めて施錠音を立てた。


 売国奴。今、あいつは、彼女を売国奴と言ったのか──?


 ブランクは怒りに震えた。ともすれば熾火おきびの盛るように、言い知れぬ熱意がブランクの腹の底で爆ぜていく。


「あっ……えっと。どう、しましょう」


 目が泳いでいる。否、立ち往生して溺れているとさえ言っていい。おろおろとそんな言葉をこぼしたエレノアに、喉から出かかった溜飲を下げた。ブランクは、ひとまず彼女が落ち着ける場所へと向かうべく、獣車へ戻ることを決意した。

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