第八十二話『曇りなき悪意』
ブランクは気がついた。
町ではあまり聞こえなかった子どもたちの笑い声が、降り立った孤児院から聞こえてきたことに。当然といえば当然なのだが、ここは賑わいが一層増して和やかだ。町の郊外にあるからか、ブランクはここがどこか別世界に思えて仕方なかった。
教えにならってブランクが先に降車する。続けてエレノアの手を取り、降車を手伝った。御者台のランツを見ると、枯れ草を片手に騎獣のご機嫌取りをしている。ブランクがランツに声をかけようとすると、
「ようこそおいでくださいました領主様」
それよりも早く、孤児院側から声が聞こえた。ブランクが振り返ると、そこには見るからに上等な布地であつらえた修道服を着た、見すぼらしい老齢の男がいた。痩せこけた見た目と服との落差がおかしくて、ブランクは失笑をもらいそうになるのだが──、
「お会いできて光栄です、神父様」
エレノアが胸に手を当て一礼し、ランツですらいつの間にか御者台から降りて一礼をしているのだから、ブランクも釣られて会釈する。すると男も同様に一礼し、四つの影が仲良く折り曲がる。男は早々に頭を持ち上げると、未だ頭を下げたままの三人に、点頭する。
「領主様、頭をお上げください。遠路はるばるおつらかったでしょう。大したもてなしはできませんが、どうぞ中でごゆっくりくつろいでいってください。子どもたちも、きっと喜ぶことでしょう」
神父の後に続くエレノアに、ブランクも釣られてついていこうとすると、ランツがその首根っこを掴んだ。ぐえっと間抜けな声が上がって、ブランクは襟元を叩く。
「お前はこっち!」
「わ、わかったよ」
いいから離してと訴えると、ランツはわり、とそのまま離す。当然ブランクは宙に浮いていたのだから、そのまま尻餅をついてしまう。
「もっと丁寧に扱ってよ!!」
「おお、たしかに!」
ぽんっと手を打つランツに、ブランクはぶつくさと悪態をつく。目端ではエレノアが何度もこちらをチラチラ様子を窺っている。ブランクはお尻についた土埃を叩いて払う。するとランツが「んで、ブランクよぉ」と脈絡もなく会話を切り出す。
「おでは聞きてぇことがあんだ」
「どしたのさ、藪から棒に」
未だ痛むお尻をさするブランクに、ランツは問う。
「屋敷でなんかあったべか?」
「……!」
ランツを見くびっていたわけではない。しかしさすがのランツでも、今の屋敷の無人状態がおかしいことぐらい、すぐにでも分かることなのだ。ランツは、どこか気まずそうに頬を掻きながら、分かりやすく肩を落としていた。
「おで、甲斐性がねってんで、彼女にフラれたんだ」
「甲斐性が……ない?」ブランクの耳に、何かが引っかかった。
「そりゃ、おでは出世はしてねーけどよ。一応お屋敷の使用人だし、身の丈にあった暮らしが一番だよな?」
「……」
ブランクは一考挟み、それから不安に瞳を揺らすランツと視線を交わした。その後ろからは子どもたちの讃美歌が聞こえてくる。それが不透明な疑問に幾許かの灯りを見せたような気がした。
「ランツはさ、今の暮らしで不満を感じたことはある?」
質問に質問を返されて、ランツはおかしなやつだなと首を傾げる。
「そりゃ、ねえことはねえけどよ。おではここ来てからひもっじー思いしたこたねっがらよ。不便を感じることはあっでも、不満なんかねえわな」
そりがどした? と聞かれて、ブランクは指に顎を乗せる。
普通、獣舎番でもそれは立派なお屋敷の使用人だ。ランツの言う通り、それが甲斐性なしにされるのはおかしい(衣食住が担保されている)のだ。この間の町のこともある。何か、僕らの預かり知らないところで、サラが暗躍しているだろうのか。
それともサラは逃げたのだろうか。いいや、そんなタマではない。あの執拗なまでの悪意。たった一度の威嚇で逃げるようなタマか。第一あの底知れない強かさだ。悔しいかな、あの女はブランクのことを敵とすら見做していないはずだ。
ブランクがそうやって黙考にふけっていると、ランツが、おい、おーいと再三呼びかける。
「こえー顔してどっしだ? おでが彼女にフラれたんだぞ。おめじゃねえぞ」
「うん、知ってるよ。僕に彼女はいないから」
取りつく島もないほど悲しい宣言に、ランツは狼狽えている。しかし、ブランクの頭は今そんな些事に割いている余裕がない。もしもサラが何かを企んでいるのなら、今エレノアを一人にするのは危ない。サラの狙いは、常に彼女なのだから。
「ごめんランツ。やっぱり僕、エレノアのところに行ってくる」
「エレ……ッ、おめ、領主様を呼び捨てか。偉くなったもんだなあ」
耳を伏せて頭を低くしたランツに、ブランクはそんなんじゃないよと苦笑う。
「ま、そろそろ帰ってくるだろし、迎えん行ってもいだろ」
「ごめん、ランツ、さっきの話、また今度詳しく聞かせて!」
おう、と威勢の良い送り出しを受けて、ブランクは駆け出した。エレノアが施設に入って小一時間。サラのことが気にかかれば、時間としてはやや長い。いつの間にか讃美歌も耳に聞こえなくなっている。どうにも目を離すと、何か良くないことが起こるんじゃないかと、ジャンの時のことが脳裏を過って仕方ない。
「あっ」
胸中に燻ってた胸騒ぎは、孤児院から出てきた亜麻色の髪を目に留めると、静かに安らいでいく。少女は別れすがら、硬貨袋を神父に手渡していた。
「今回の寄付金です。すこし問題が起きて、前回よりも少ないのですが……」
「何を仰いますか。領主様のお陰で子どもたちも健やかに育っております。きっと、神様もあなたの行いを見てくださっているでしょう」
何事もなくて良かった。思い過ごしだ。取り越し苦労に終わって良かった。
「エレノ──」
アと。ブランクが呼びかけようとした時のことだった。
「死ねっ!!」「うっ!」
神父の後ろから、孤児院から飛び出した少年が、何かを投げた。それが、あっという間に少女の額を真正面から捉えた。コッと骨を打つ鈍く高い音が鳴ると、それはゆっくり地面に落ちる。ブランクは──否。そこにいる全員が目の前に転がったものを認識した途端、顔を青ざめさせた。石だ。エレノアの目蓋から、一筋の赤が頬を伝って流れた。
その礫が息絶えたように転がることをやめると、少女は流れ落ちた血を手で受け止めて、「ぁ……」と小さく声を漏らした。
その瞬間、ブランクの血液は容易く沸点を突破した。
「お前ぇ、何してんだッ!!」
カッとなってブランクがエレノアの前へと割って入ろうとする。しかし、
「ブランクやめてッ!!」
エレノアはそれを手で制する。ブランクはまさか自分が一喝されるなどとは、考えもしていなかった。その為、その一声に思わず足がすくんでしまう。
「わたしなら、大丈夫だから」
何故、を問うよりと早く、老齢の男が「お許しくださいっ!!」と叫ぶのが聞こえた。
「この子はまだここに来て日が浅いのです、親と離れて寂しいだけなのです、子どものしたことでございます、どうか、伯爵様、何卒、ご慈悲をっ!」
まるで猛獣を目の前にしたかのようなその慌てぶりに、ブランクは違うだろ、と誰の耳にも届かぬほど小さく呟いた。今この場において被害者はエレノアだけだ。何故こんなに恐れられる必要がある。離せと息巻く年端もいかぬ子どもの純粋な悪意に、ブランクは歯痒さでいっぱいになった。
あの少年は、エレノアになんと言った? 死ねと言ったのか?
耳を疑えど怨嗟のこもった声が耳に新しく、それが鼓膜を突き抜けると残響が爆ぜ、はらわたに沈んで新たな怨嗟を燻らせている。
「なんで止めるんだよ神父さま! アイツのせいで父ちゃんと母ちゃんがビンボーだから、おれは捨てられたんだっ!!」
ブランクは全身を砕かれる思いだった。彼女のこれまでの頑張りを思えばこそ、その努力は報われているはずだと、報われて然るべきだと思っていた。でも実際はどうだろうか。
「ごめんなさい。わたしがお父様のように立派なら、あなたもご両親も、幸せに暮らすことができていたのに……」
その高潔な言葉を前に、神父も少年も、ブランクですら言葉を失った。
よく晴れた空の下。光を攫う雲から落ちたる影が、全てを呑む寸前。花も恥じらう笑顔で嫣然と振る舞うその少女が、少年の八つ当たりに、ひどく苦しそうな色を見せていたのを、ブランクは見逃していなかった。
ああ。悲劇とは──善意が理不尽に潰える瞬間を云うのだ。




