第八十一話『貴族の義務-ノブレス・オブリージュ-』
「王のルーン……?」
ブランクはその言葉が強く印象に残った。それは言葉の持つ強い響きが原因などではなく、何故その言葉を今まで知らなかったのか、というような、目から鱗の落ちる思いを抱かせて。あるいは、すこしの恥じらいを覚えさせて。いずれにしても、ブランクは霹靂の降ったように頭の中を痺れさせていた。
「諸説はあるようだけれど、どんな願いも叶えるてくれることからそう呼ばれているらしいわね。わたしはそう聞いたわ。これが正しい名前かは分からないけれど」
「いや。そうだよ、きっとそうだ!」
前のめりに興奮したブランクが頷くと、エレノアはふふふと笑いをこぼした。ブランクは思わずなんだよ、と不服に眉をひそませる。それを受けたエレノアは「いえ」と歯切れ良く切り返した。
「男の子ってそういうの好きよね。ちょっとかわいいなって思って」
「なっ──!」ブランクは頭から変な汗をかいた。
「君が言い出したんだろ!」
「あなたが勝手に盛り上がったんじゃない!」
じーっとお互い譲らず睨み合っているブランクとエレノア。すると二人はどちらともなく堪えきれず、くすりと笑いあった。
「出会った頃もこんな感じだったわね、わたしたち」
「ちょっと前のことなのに、ずっと長いこと君といる気がする」
たしかに、とエレノアは嬉しそうに頬を緩めた。
「あの時の君ときたら、愚鈍で女々しくて頭でっかちとかチビだとか、ほんと、散々な言いようだったよね」
遠い過去の記憶を辿るようにそういうと、エレノアははて、と首を傾げる。
「わたし、そんなこと言ったかしら?」
「言ったよっ、結構気にしてたんだからね!」
曲がりなりにも片思いだった少女に面と向かってそんなことを言われては、プライドも何もあったものではない。ブランクはあの時の屈辱を片時も忘れたことはなかった。
「何よ、あなたこそわたしのことを変態呼ばわりしたじゃない!」
「それは君もだろ!」
お互い唸りながら視線で火花を散らしていると、エレノアが突然「いけない!」と慌てて身支度を始めた。ブランクは何事かと色めき立つ。
「これから孤児院の視察があったのだったわ。町工場にも立ち寄らないといけないのに」
「えっ」
ブランクは耳を疑った。このタイミングで何故、と。
「王のルーンはどうするのさ!」
「それは後でもできるわ。もし肩透かしに終わったら取り返しがつかないのはこっちよ」
同じ失敗は繰り返さない、とエレノアは慌ただしく部屋を後にした。
「行っちゃった……」
僕は留守番か。ブランクがそう思って屋根裏部屋へ戻ろうか悩んでいると、緑青色の瞳がドアを開けてじぃっと見つめていた。
「何をやってるの、あなたも来るのよ」
「えっ!」
当たり前でしょう、と腰に手を当てながら。エレノアは眉を吊り上げて言った。
「わたしの騎士さま、でしょう?」
「……はいはい、お姫さま」
そうやって肩をすくめたブランクに、エレノアは「はいは一回!」と間髪入れず物申す。するとブランクは、やれやれと呆れながらエレノアの後を追い、その真意を測った。
普段の彼女なら領主としての都合に、自分を巻き込むことはなかった。ここ最近、彼女との親睦が深まったとはいえ、この急接近とも言える扱いには驚きの色が濃い。
「ねえ。僕、子どもじゃないんだけど」
「いいから、このまま」
袖口を引っ張る少女は、コートを片手にブランクの袖口を引いて、屋敷の中を先導する。普段の彼女からは想像もつかないほどお転婆で、淑やかな見目と裏腹な言動に、彼女が浮き足立っているのだと、ブランクはようやく気がついた。
「何か焦ってる?」
「……そんなことないわよ」
間が物語る。彼女は焦っている。ブランクはそう確信した。
ああ。そうか──。
ブランクはその理由がすぐに分かった。ブランクの袖口をキュッと大切に握る締める手が震えている。先んじて歩く彼女が、まるで迷子のようにその小さな手を震わせている。彼女は怯えているのだ。目の前に現れた奇跡が、夢のように消えてしまうのではないかと。
ブランクが何か一言言ってやろう。そう思ったのと同じくらいに、エレノアは突然歩みを止めて、俯いた。
「……不安なの」
「……だと思った」
背中を向けたまま語る少女の背中は、あまりにも小さい。窓を開ければ、そのまま春風にでも拐われてしまいそうだ。だからこそ、ブランクは言う。
「僕はどこにも行かないよ」
「……そ。ありがとう」
心なしか、ブランクは少女の耳が赤かったような気がした。
それから、二人は獣舎へ向かった。クロエは精神も安定したようで、用足しも『魔操術』を用いることで、なんとかできるようにはなったらしい。歳近い少女の介助は何かと気苦労が多く、ブランクは胸を撫で下ろす思いだった。
獣舎に着くと藁と土気混じりの家畜臭がする。幸いランツは仕事熱心に騎獣の世話をしていて、すぐに獣車と騎獣の準備をしてくれた。
(ランツは残ってたんだ、ちょっと意外かも)
おっ、どうした? とはにかむ普段通りの姿に、ブランクはホッとした。この屋敷からは依然使用人の姿が見えないままだ。この異常とも言える事態にエレノアの顔はずっと苦虫を噛んだようで。ランツの気楽さが、今は沼に咲く花のように尊い。重苦しい空気にうららかな風が通り抜け、一向は獣車に揺られて孤児院への到着を待った。
その車内、ブランクはそういえば、どうして王のルーンを後回しにしたの? と尋ねた。するとエレノアはすこし考えてから、しめやかに答えた。
「わたし、一年前にあなたの国へ行ったわよね」
「僕が助けた時のことだよね。それがどうしたの?」
そう切り返すと、エレノアは言い淀んだ末に、情けないと言わんばかりのため息をついた。
「あの時、わたしは王のルーンを探し求めてあなたの国へ行ったの。過去をやり直せる力があると聞いて、あの時のわたしは、居ても立ってもいられなかったわ」
ちょうどその時ね、とエレノアは続ける。
「マルシェの報復によって暗殺されかけたのよ。それを救ってくれたのがあなた」
実際のところはよく覚えてないけど、と本音を臆面もなくこぼされてはブランクも思わず苦笑を浮かべるしかなかった。しかしエレノアにしてみれば意識が朦朧としていたのだから、当然の話ではある。
しかしすこしぐらいありがたがってくれてもバチが当たらないのでは? と思いかけて。ブランクはいやいやと首を横へ振る。
(いやいや、人助けは見返りを求めるものじゃないから!)
あの橋から落ちた日、自分はそれを痛いほど学んだはずだ。あの日魔物に裏切られたその時から、世界は正しいだけではままならないと。突きつけられた現実は、強者にだけ優しい世界だ。隙を見せた者から喰らわれる。それが世の常であった。それだけのことだ。
ブランクがふう、と一息つくと、亜麻色の髪がこちらを向いていた。窓へ顔が向いているのだが、目蓋が閉じているので景色を楽しんでるはずもない。
「え。どうしたの?」
別に、とこぼした横顔は、不服に頬が膨らんでいた。声は一段鋭く低く、一目に見てふてくされているのだと分かった。
「あなた、わたしの話に興味なさそうなんだもの」
「えっ、いやいや、そんなことないよ!」
「うそ。それならどうしてわたしの話を無視したの?」
「無視なんかしてないって。ちょっと考え事をして──」
ブランクがそう言いかけると、エレノアは「ほらっ!」と鬼の首取ったように強気に出た。
「やっぱりわたしの話なんて興味ないんじゃない!!」
「そんなことないって……君の話の続きを聞きたいんだ。お願いだから教えてよ」
「いいわよ別に。わたしも話しててそんなに気持ちいい話じゃないんだから」
ぷいとそっぽを向かれると、ブランクは参ったな、と、後ろ頭をかく。礼節を掻いた自覚はある以上、素直に謝るのが得策だと思った。
「ごめんって。確かに人と話してる時にすることじゃなかった」
「……」真摯な対応を見せたからか。エレノアはすこしたじろぎながら、申し訳なさそうに目を伏せ、むうと口を尖らせた。
「……何よ。そんな風に謝られては、わたしが悪いみたいじゃない」
不満げな様子にエレノアってすこし子どもっぽいのでは、とブランクが思いかけた時。
「わたしの方こそ──ごめんなさい」
「え」ブランクの耳を、そんな言葉が掠めた。
「だめね……どうしてもあなたを相手にすると、甘えて意固地になってしまうわ。どうしてかしら」
「さあ……」
甘えて? と疑問を覚えたのはさておき。ブランクにとってそれは悪い気がしなかった。エレノアはこほんと咳払いをして「この話はもうおしまい」とさっさと話題を変えた。
「それで、どこまで話したかしら?」
「えっと。僕が君を助けたとこまで……って──」
言いかけて、ブランクはごめんと謝った。エレノアの顔がやっぱりと言っていたからだ。
「まあいいわ。ここまできたら話すわよ。わたしはそうしてあなたの国へ行ったのだけれど、その間、わたしは屋敷を留守にしていたわよね?」
「そう……だね?」
それの何がおかしいのか。当然の確認に、ブランクは首を捻った。しかし、
「その間のことよ。サラが屋敷の実権を握っていたのは」
「……あっ!」そう、とエレノアはため息をついた。
「帰ってきた時にはわたしが奔放であるとか、有る事無い事、そんな噂話が聞こえてきたわ。だからこそわたしは、サラのことを強く疑ったの。気にせずに行っておいでと言ったのは、他ならぬ彼女だったから」
続く言葉は、あまりにも残酷だった。当主の不在をついて、サラは屋敷の人間を掌握したのだ。ブランクは、あの悪辣な筆頭メイドの本性を甘く見ていたと実感した。
「きっと……今の状況もサラの策略なの。何が目的かまでは分からないけれど」
「……」サラの目的。エレノアの破滅だけを願っている彼女の目的など、分かりたくもない。ただきっと、それがろくでもないことだけは確かだ。わざわざ使用人をいなくして、この間のテハスという来客が来た際に、恥をかかせたのだろうか。ブランクは黙考を重ねる。
「ねっ。つまらない話でしょ?」
自重気味に笑うエレノアに、そうだねなど言えるはずもない。ブランクはううん、と首を横へ振った。
「つらかったんじゃない?」
ブランクがそう尋ねると、エレノアは、ははと乾いた笑いを浮かべた。
「罰だと思ったわ。あるかも分からないおとぎ話に縋って、守るべき領を空けたのだから。それが原因で、使用人からも愛想を尽かされた」
当然の報いだったのよ、と続けるその哀愁の入り混じる横顔は、まるでありし日の自分を軽蔑しているようだった。
「わたしは民を裏切った。客観的に見れば、それが事実なの」
「そんなこと──」だから、と。ブランクが言い終えるよりも早く、エレノアの大きな声が断ち切った。続く言葉を聞きたくない。慰めは不要だ。そう言っているように感じて、ブランクの気安めの言葉は、ついと喉の向こうへ引っ込んだ。
「だからこそわたしは、もう悔しい思いをしたくないの。夢を見ている間にも、現実は確実に進んでしまう。夢を叶えるまで、現実は待ってはくれないの。わたしはそれを、忘れてはならない。民の命を背負っているのだから。それが、貴族として生まれた者の義務なのよ」
「エレノア……」
少女が自分に言い聞かせるような言葉を、自らの拳へ向かい、言い終えた時。
「さ、着いたわ」
獣車は速度を落としていた。外には古びた煉瓦造りの屋根が見え、一軒家にしてはすこし大きい家屋が視界を奪った。獣車はいつの間にか孤児院に着いたのだ。




