第八十話『夢のほとりに』
ちょうど三年前だっただろうか。過日のごとく煙ったい鈍色の空の下、冷えきった影色に染まった洞穴の中で、大好きだった父の声が苦しげに、おそろいの緑が失われ、葡萄酒よりもなお深い赤が撒き散らされ、取り戻しようのない過去が、夢はそのあってはいけない未来へするすると滑りこんでいく。
『おとう、さま……?』
震えた声が父の耳に届いたのか分からない。吹き飛ばない程度の力で押しのけられ、それがずっとわたしの骨に響き、後を引いた。きっと違うと分かっているのに。そう信じたいのに。拒絶されたようで。責められたようで。わたしは泣いていた。
『お前を──、────』
わたしは何と言われたのだろう。覚えていない。わたしはそれを、覚えていない。
失望したのだろうか。憎んだのだろうか。愚かで取り返しのつかない失態を犯したわたしを。およそ英雄の娘とも思えぬ、聡明さの断片もない、このわたしを。
『ごめんなさい、ごめんなさい……』
そうやって謝ると、父はいつも寂しげに顔を歪ませて、砕けるのだ。後に残るのは赤黒い液体だけだ。そこから幼馴染の声が、脳裏に直接ささやいてくる。
『お前が僕らを殺したんだ』
そうだ。わたしが彼らを殺したのだ。浅はかな扇動が元凶で、彼らを破滅の道へと導いてしまった。その贖罪のためだけに、わたしの人生は存在している。
『アル──?』
彼に言いたい言葉がたくさんあるというのに、叫び声が上がらない。全てが喉に詰まっている。それを掻きむしる。わたしは我が身がかわいいのか。そんな高潔な人間では、とうにないというのに。苦しい、苦しい、苦しい、誰か──。
「ぁ──」
つう、と頬を滑る雫に気づいた。冷たい軌跡が冷や水を浴びせるようだった。夢の終わりはいつもこうだ。もはや届かぬ過去に手を伸ばし、夢境の彼方を掴み損ねる。
その悔しさに唇を噛みしめ、エレノアは顔をしかめた。気まぐれに顔を覗かせた太陽が、今は心底憎たらしい。
ずっと真夜中でいいのに。そうしたら、わたしはずっと彼らに逢えるのに。けれど世界はわたしを引き留めてくれやしない。現実という鎖が、今日もわたしを領主という責務の前へ引きずり回す。
伝えたい言葉がたくさんあった。過去の誤りを認め、償いきれない罪を謝り、贖いのために身を捧げ、そのためだけに生きていく。いや、死ねと言われれば喜んで死んでみせる。
しかし、現実はそんなに甘くない。甘くはないのだ。亡くなった人たちに謝ることなど、どうやったってできやしない。過去は過ぎ去った後だから。
死人に口なし。耳だってもちろんない。わたしの独りよがりな謝罪など、誰の耳にも届きやしない。そんなことなど許されやしない。
あの日から泣き言は言わないことにした。そんな資格などないからだ。ましてや〝死んで楽になる〟など許されようはずもない。わたしは一生涯かけて、この罪を贖い続けなければならない。
これは罰だ。生涯背負うべき罰なのだ。これまでは。そしてこれからは──。
「……いけない、こうしてはいられないわ」
エレノアは身支度を整えた。今日は特別な日だ。
曇りなく磨かれた鏡台の前へ座り、エレノアは髪を梳く。月色のなめらかな髪。するりとそれが解けると、麦畑のようにさらりと揺れる。それを何度か繰り返すと、起きた時よりも少しはお転婆な髪が減った。
目元で粉黛を叩いて重ねる。これが目の下の隈を消してくれる。すこし青白くなった唇に薄紅を引く。血色が良くなった。統制者たるもの、いかなる油断も見せてはいけない。それがサラの教えだった。
「……皮肉なものね。彼女に裏切られながらも、わたしは彼女の言葉に救われてる」
毒殺されかけた時に抱え過ぎた銀食器を売り払おうとした時も、サラに諫められた。
『一度購入した銀食器を売るなど為政者としての誤りを認めるようなもの。威厳を損なってしまいます』
いつから裏切っていたのだろう。いつから裏切られていたのだろう。少なくとも、何年か前までは、長い髪もサラが梳いてくれていた。社交界に出なくなって久しい今ではほとんど着なくなったが、ドレスの着付けも昔はしてくれていた。
わたしはどのボタンをかけ違った? どれほどの負担を彼女に与えた?
わたしは彼女に何をしたのだろう。
「……だめね」考えても答えが出ない。せっかく色気づいた顔も暗い印象が目立った。エレノアは静かに首を横に振る。手元から味方という味方はことごとく失われてしまった。
サラには裏切られ、使用人は皆一様に姿を消してしまった。もしかして使用人も裏切ったのか。それとも帰れない理由があるのか。いずれにしても、募集をしたとてすぐに来る人がいるわけでもない。執事や騎士など、いくら募っても声すらかからないのだから。
それも当然と言えた。財政難でドレスを売り払ってしまってからというものの、社交の場に出る機会など滅多と少なくなってしまったからだ。仮に出たとして、胸に疵を残した小娘を主人にしたがる物好きなど、どこにもいやしないのだろうが。
「……」
脳裏に浮かぶのは琥珀色の目をした彼。
「今の君を否定してほしくない、か……」
エレノアは、いつかに握られた手を見つめながらそう呟いた。優しさに甘えてはいけないのに、彼はいつも強引に踏み込んでくる。あの時はあまりに強気なものだから、ドキリと胸が高鳴りを覚えたものだ。
「わたしは……彼に何をしてあげたらいいのかしら」
たくさんのものをもらってきた。恩には義を以って報いるべし。彼にしてあげられること。家族のことだろう。彼がここを去ってしまう。それを想像するだけで、胸が張り裂けそうだ。その時が来たら、わたしは納得できるのだろうか。笑って見遅れるのだろうか。
「ブランク……」名前を呟くと、胸の奥の闇が晴れた気がした。
エレノアは背筋を正したまま、金庫へと歩み寄ると、鍵を回し、中の皮袋を取り出した。皮袋の中はギャラギャラと騒がしく、それだけに中身が詰まっていない虚しさを助長する。
(胡椒を売って作ったお金もそんなにない。買い出しで渡したお金がないのが痛手ね……)
パタンと金庫を閉じながら、エレノアは痛む頭を抱えた。先日からの使用人失踪事件は、よもや計画的なものだったのではないかとエレノアは疑っている。食材は買い出しできるし、余ったお金は旅費にもなる。そのまま持ち逃げすれば、しばらく食うに困らず領を跨ぐことができるだろう。
そう考えればあのお金が戻ってくるなど絶望的な状況であり、昨日の来客で貴重な胡椒をさらに使ってしまったのがもう一つ余計だ。しかしあそこで胡椒を使わなければ、本来なら賄い用である傷みかけた肉しかなかったのだ。胡椒で誤魔化さなければあの男は侮辱されたと激昂していただろう。ただし必要経費としては高すぎる。
「はあ……」エレノアは焼けつきそうな思考の熱を、吐き出した。
直後。数回ノックが鳴った。エレノアは険しく寄った眉間を持ち上げてから、頬を緩めた。
「エレノア、起きた?」
窓辺に立っていると、そんな声が聞こえた。エレノアは、寂れた花園から視線を逸らし、入口の方へと顔をやる。
「入っていいわよ」
そうやって許可を得ると、その声の主は扉を開き、おどおどとしながら足を踏み入れる。おっかなびっくりに立ち入るその姿に、少女は思わず笑みをこぼした。
「おはよう、ブランク」
「おはよう……って、あれ?」
その少年はひどく困惑していて。エレノアは不思議に首を傾げた。
「どうかした?」
女の子の部屋に入ったから緊張しているの? とからかおうと思っていたのに、ブランクがそんな様子では、それどころではない。エレノアの言葉に、ブランクはいや……と歯切れ悪くも切り出した。
「今、初めて名前で呼んでくれた?」
「……そうだったかしら」
思い返せど、確かな記憶がない。そう言われるとそうだったような気もする。呼んでいたような気もするのに、それがいつだったかが分からないのだ。エレノアは食んだ空気と胸に溜まったもやもやを、一緒くたに吐き出して、そっぽを向いた。
「……そんな細かいこと、いちいち覚えてられないわ」
エレノアはやってしまったと思った。そんなこと言っては、彼を非難しているようなものだ。それなのに、
「あっはは、確かにそれもそうだね」
彼はそれを咎めず、受け入れる。それが妙に心地良くて、同時に胸の奥にささくれの立つのをひそかに感じていた。だからだろう。
「ねえブランク。もしわたしが結婚すると聞いたら……あなたはどう思う?」
「えっ──」
少年の顔が曇るのを感じた。少女はそれにどこか胸の軽くなる思いを抱きながら、それを悟らせぬよう、背を向けた。
「わたし、結婚を申し込まれたの。昨日、侯爵家の嫡男である、彼に」
「……テハス」
少年の言葉に、少女は「そう」と続けて、強張る声色のする方へ振り返った。
「でも断ったわ。わたしには、必ずやり遂げなくてはならないことがあるから。誰かの手を借りてる場合ではないの。後悔するぞと言われたわ。わたしの領にはお金がないから、これを拒んだのはたしかに相当な痛手よ」
けれど、とエレノアは頬を緩めた。そうして目の前の少年の手を取り上げ、それを大切に握りしめる。
「あなたのお陰で、その判断が誤りでないと、より深く思えるようになった。ありがとう」
「……どういたしまして?」
困惑する少年に、少女はくすくすと笑った。悪夢の余韻も浚っていくようで、少年の所作一つ一つに慈しみすら覚える。
思えばこの少年にはいつも救われてばかりだ。あの雪山で初めて見た時は、あまりに頼りない年下の男の子だと思っていた。それが蓋を開けてみれば誘惑の瞳を跳ね返すほどの魔力を備えているし、向こう見ずで世話焼きで、わたしが挫けそうな時、誰よりも諦めずにいてくれた。そのお陰で、わたしの心にどれだけ彩りが生まれたであろうか。
最近はよく眠れるようになってきた。食事も味がするようになってきた。頭痛がだんだんと少なくなってきた。手の震えも消えてきた。彼の功績は数えるには易いが、推し量るにはあまりにも深いところまで届いている。
しかし、件の話に関してはエレノアにも譲れないものがある。初めてその存在を耳にした時から、何を犠牲にしてでもその力を手にしてみせると、そう誓っていた。
一度は諦めた。神の力である魔法は一人一つまでであると知ったからだ。何よりも恩人である彼に──ジャンに迷惑をかけたくはなかったからだ。
しかし彼がその力を持っていると知った時、少女は運命を感じた。これまでの苦労がようやく報われたのだと感じた。決して手放してはいけないと思った。
その決意に強ばった喉をほぐすべく、エレノアはようやく息を整えると、ブランクの手を取り上げ、愛おしく握りしめた。
「さあ。あなたの時を遡る力を……〝王〟のルーンの力を、わたしに見せて?」




