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The Alter Story  作者: 水落護
第九章『選び取った未来』
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幕間『あなたがいるから』

「ふむ。女主人自らが出迎えとは。悪くない気分だ」


 我が妻になる予行演習という趣向かね、と問いかけられると。エレノアはとんでもない、と肌に怖気を走らせながら、しかし澄ました顔を装い、生憎ながら、と顔色ひとつ変えずに切り返していった。


「本日、使用人には暇を与えておりましたので」


 テハスはそれを受けるとああ、なんだ、手違いか、と歯茎を見せて笑う。


「私にとっては幸運だね。君のように美しい者が案内をしてくれるというのは、まあ、悪い気がしない」


 ああ。気持ち悪い。エレノアは静かにそう思う。


 今日という日に限ってこの男が訪ねてくることもそうだし、差し当たって一番の問題は、先日から使用人が帰ってこないことだ。幸い使用人の失踪からまだ日が浅いから、蜘蛛の巣や目立った汚れは見当たらないが、こんなこと、いつまで保つかも分からない。


 しかしエレノアにとって何よりも苦痛であるのが、この男の肢体を舐め回すような下卑た視線を一身に受けながら、屋敷の中へ招かなければならないということだ。

 反吐が出る、とエレノアは思った。


 昔からそうだった。発育が良いという自覚はある。その度に男たちの視線が舐め回すように自分を捉えると、エレノアは、ああ、気持ち悪い、と、幾度となく思ってきたものだった。


 だが近年ではその対象が同年代だけでなく、自分の父ほどの年齢のある人物からも向けられるようになり、男という存在に対して向き合う生きづらさが、日増しに増えていった。


 この男も例に漏れず、情欲を隠そうともしない。視線はいつこの衣服を剥がそうかと虎視眈々と狙っていて、芋虫でも這うように舐め回してくる。


 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い──。


「どうぞお席についてください。間もなく食事の時間となりますので」


 しかしそれを顔に出すわけにはいかない。

 広間へ案内したエレノアは、テハスを客席へ案内しようとした。するとテハスは「いい」とそれを突っぱねた。


「テハス様……」

「わたしはここに座る。私は次期侯爵で、君は伯爵なのだから」


 それに、とテハスは口元を歪めながら、続ける。


「君が我が妻となれば、私がここに座ることも道理であろう?」

「……」


 中央の席へ無遠慮に腰かけたその男に、エレノアの額に青筋が立った。椅子が軋んで悲鳴をあげている。


 今すぐこの男の顔面を鷲掴みにし、リンゴを砕くよりも容易く脳漿をぶちまけてやりたい。そんな殺意と怨嗟が沸々と腹の底から湧いて滲んだ。


「……料理長、食事を」

「へいっ、あ、はいっ!」


 しかしここでもし楯突こうものならば、後々厄介なことになる。もしこの男に手を出せば、侯爵家と事を構えることになってしまう。そんな財政的な余裕もなければ、社交界から孤立している我が家にとって唯一の懐剣と言えたクロエも失ってしまっては、騎士もいないこの領で、我が身一つで領民を守れるなど到底思えない。


 それに父との約束もある。彼は救いようのない悪人ではない。癇癪を起こされるよりはとエレノアは食事を急がせた次第である。ただでさえ、今この屋敷には人手が足りていないのだから。


「しかしあれだね。君の屋敷は配膳一つ満足にこなせる使用人も残っていないのかね?」

「……生憎ですが」


 エレノアは視線に一層鋭さを含ませた。しかし、蝋燭から落ちる火影よりなお一層冷たい色を交えているというのに、この男は不遜な態度で受け止める。


「おお、こわいこわい。私も悪気があって言っているわけではない。私のところの従騎士をこちらに遣わそうか、という提案でだね」


 どこか含みのある言い方に、エレノアは怪訝に眉をひそめた。よもや使用人の失踪に一枚噛んでいるのでは。そう疑いこそすれど、確信の持てないことにいちいち目くじらを立てていては、貴族社会では息などできやしない。


「結構です。わたくし(、、、、)は、自分の目で信じた者だけを雇っておりますので」


 自分でその言葉を口にしながら、エレノアは滑稽だと思った。信じていたサラに裏切られているのだから。


「ふんっ、後悔するなよ」


 しかしその強がりは功を奏したらしい。恐らくは恩を売っておこうとしたテハスの老獪な一手は、負け犬の遠吠えに変わった。あちらも曲がりなりにもこちらを堕とそうとしているからか、目の前で癇癪を起こすこともないようだった。それはエレノアにとって僥倖であり、差し当たってテハスを出し抜く隙を見つけられたことにホッと胸を撫で下ろしたエレノアは、自分の器量の良さに、初めて感謝した。


「チッ、遅いなあ。まともな使用人がいれば、すぐにでも終わるものを」


 そう言いながら、テハスはエレノアの手の上に、自分の手を重ねようとする。しかし、


「ご不便をおかけします。わたくしも配膳を手伝って参りますので、しばしお待ちいただければ」

「なっ……いやいや、何も主人である君が行かなくとも良いではないか!」

「お客人を待たせては申し訳が立ちませんので」


 そう言って席を立つと、エレノアは広間を後にする。その背に叩舌こうぜつを受けたエレノアは、先ほどテハスに触れられかけた手を強く擦って涙を浮かべた。


(気持ち悪い、どうして、あんなことを、平然と……!)


 目尻に涙を浮かべながら、エレノアは鼻頭を摘む。鼻の奥に残るテハスの充満する皮脂のにおいを、必死で鼻腔から追い出した。胃酸がひっくり返りそうになるのを必死に堪えながら、エレノアは厨房へと向かう。


 不遜でふてぶてしく、自惚れの激しい醜男がお父様の屋敷を侵略している。悍ましく許しがたい暴挙であるのに、今のエレノアにはそれに抗う力と術がない。


 悔しい、苦しい、くやしい……!


 エレノアは唇を噛みしめながら、足早に歩いていく。口を覆って果敢に息をしようとしても、上手く呼吸ができない。わたしは、どうやって息をしていたのだろうか。足取りもだんだん重たくなる。まるで海の底でも歩いているようだ。エレノアはフラフラと窓辺へもたれかかった。


「……!」


 その最中。エレノアは庭先に人影を見た。


 それは、くたびれた花を見て哀れと思ったのか、花に水を撒いている赤枯れ色の髪をした少年だった。何を思っているのかは分からないが、花を心配したように顔をかげらせている。


 少女は思い出した。この手にくれた温もりを。あの少年が取り戻してくれた誇りを。


 ふっとエレノアの頬が緩んだ。胸の高なりが穏やかになった。あれほど大海の荒れ狂ったようにさざめき立っていた心に、静かな凪が訪れた。肩の荷が降りた。今日初めて、喉から肺に空気の通った気がした。


(あなたという人は……)


 蜂に追われる姿が思わず笑えてしまった。くすっと笑みをこぼしたエレノアの足取りは、いつの間にか軽やかなものになっていた。


「──料理長」

「いぃっ!! 御当主様がなんで厨房なんかに!?」


 おったまげて飛び跳ねたグエンが一人で盛り付けに苦心してるのを見て、エレノアは既に盛り付けられた前菜の大皿二つに目をつける。


「お客様がお待ちよ。この二つは先に持っていくわね」

「へえ、面目ございやせん……」


 ペコリと帽子を取って頭を下げるグエンに、エレノアは気にしなくていいわと労う。


「あのー、ご当主様?」

「……何か?」


 大皿を取り上げようとしたエレノアに、グエンが呼び止めると。エレノアは不思議に首を傾げた。


「いやあ……あのお客さん、御当主様に露骨に色目使ってるじゃないですか。おれ、いや私も娘がいるんであれですけど、嫌じゃないんです?」


 あんな歳の離れたおじさん、と差し出がましいことを重々承知の上で、気を遣ってくれたらしい。エレノアはうーんと煤けた天井を見ながら考える。


「やけに機嫌が良さそうじゃないですか。どうしてです?」

「さあ、どうしてかしらねえ」


 当主自ら配膳をする。そんな屈辱的な姿を、よりにもよってあの悍ましい貴族風を吹かす輩に見せなければいけない。恐らく過去の買収にも一枚噛んでいるのだろう。もはや仇敵とすら言ってもいいほど憎い相手だ。エレノアの頭には、あの少年の姿があった。彼が笑っていると、心が安らぐ。落ち着く。気が鎮まるのだ。ああ、わたしはきっと──。


「わたしにも分からないわっ」


 煙に巻かれてグエンはポカンとしていた。


 分からなくてもいい。伝わらなくともいい。ただ、今日を乗り越えられる気がした。それだけは、確かなことなのだから。

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