断章『掠れた重い出』
ああ。眩しい。また朝が来たのか。隙間からこぼれる光はいつも目に優しくない。安息の眠りにつこうとしていたというのに、世界は驚くほど自分に冷たい。
遠くで水滴の落ちる音が聞こえた。ネズミの嘲笑う声が聞こえる。風化した石畳から這い寄る風が、骨の髄まで入り浸る。
もうどれだけ人並みの生活をしていないだろうか。髪はボサボサで縮み上がり、肌は乾燥して鱗状になり、痒いと思うことすらなくなった。体も痩せたし、筋肉も落ちた。鼻を何度鳴らしても、刺激するのはカビと泥臭い土埃のにおいだけ。
それでも、その目に宿る光だけは衰えない。
「なんだ、起きていたのか。水を浴びせてやろうと思ったのに。水が飲めなくて残念だな」
もう吠える気力すらない。喉が貼りつき、声を出せば張り裂けそうだった。代わりにありったけの怨嗟を込めて睨みつけると、やってきた男はおお、怖いとちっとも怖くなさそうに愉悦の笑みをこぼしていた。
「お前が大人しく俺に従えば、前のように可愛がってやるぞ」
どうだ? と男は歯茎を鳴らして口角を吊り上げた。
「……ぅ、が……」
誰が、と言おうとしたのに、もはや声が出ない。きっと奴の狙いは自分が屈服することだ。ならば死ぬまで足掻いてやる。その瞳に燃やした殺意は反逆の光を宿した。
「おお、かわいそうに。物も言えなくなったのか。ほら、水をやる。我慢などするな。私に服従を誓うと、それを言えばお前は楽になれるのだ」
そう言って皮袋の水筒から水を口に含ませるものだから、それを振り払い、思いっきり顔に吹きつけてやった。
すると男は水を滴らせながら、顔を真っ赤にしてトサカを立てた。
「貴様……下手に出ればつけ上がりやがって!」
案の定、男は鞭を使って殴りかかってくる。痛い、とも、熱い、とも言えたが、とにかく寒いよりはマシだった。何よりも、スカした顔が崩れるのだから、見るに滑稽で面白かった。
「高貴なる者の顔に、下民ごときが唾を吐くなどッ、断じて許せん!」
ああ。もはや痛みも感じなくなってきた。このまま自分は死んでしまうのだろう。
そう信じて疑わなかった。
「がっ──」
その男の口から、剣先が覗くまでは。
その巣穴に住む蛇のように顔を覗かせた銀の切っ先は、口内の血の沼に引っ込むと、後ろにいる恐ろしいほど平静な男の手元で落ち着いた。
男はその剣についた朱色を顔色一つ変えずに振り払うと、それを鞘にしまった。その男は自分と目を合わすと、おどけた様子で暗闇に向かって「じゃじゃーんっ」とこちらをお披露目した。
「ほーらネフィ、いたでしょ?」
僕の勘ってよく当たるんだー、と笑うのは身なりの良い服装をした青年だった。その後ろから現れたのは、青年と同じく白髪の少女。お揃いの真紅の瞳が自分とかち合うと、少女はそっと静かに手を伸ばした。
「いきたい?」
いきたい。いきたい……?
生きたい? 行きたい。自由が欲しい。しかし、自分の身はもう汚れきっている。生きていたくない。なのに、目から涙が出てきた。これは知っている。
安心してしまったのだ。心が生きていたいと言っている。
知っている。この熱さは、思いの強さだ。この冷たい体のどこに、こんな熱が潜んでいたのだろうか。ああ──先ほどまで死んでもいいと思っていたのは、本心ではなかったのだ。
「泣かせちゃダメじゃないかネフィ。父上から手厚くもてなせって言われてただろ?」
「……いたい?」
痛い。体はとっくに麻痺してた。でも心の痛みだけがずっと後を引いていた。これからも消えることはないのだろう。
──居たい。生きていたくない。なのに、この場に、この世界に、自分はまだ生きて居たいのだ。
「よし、よし……」
小さな手が頭を撫でた。悔しい。苦しい。それらの思いが、ふんわりと雪がれていくような気がした。こんなことをされたのはいつ以来だろう。もうそれすらも思い出せなかった。
「差し当たって──」
よっと青年のかけ声一つが駆け抜けて。自分を縛っていた鎖がいとも容易く断ち切られた。まともに立つ気力すら奪われた体が少女の体と重なると、青年はケタケタ笑った。
「ネフィは力がないなあ」
「……おもい」
暗闇の中、自分の泣き声だけが静かに響いていた。それだけは覚えていた。




