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The Alter Story  作者: 水落護
第九章『選び取った未来』
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断章『夏の夜に消ゆ』

「奥さま、生まれましたよ!」


 圧倒的な権威を象徴する豪華絢爛な邸宅で、喜色一辺倒な声が響いた。産声と風音となら産声の方が遥かに大きい。赤子は自らの存在を証明するかのように、生命の躍動をこれでもかと強く訴えかけていた。


「奥さま、お気を確かに、貴女の御子(おこ)が生まれたのですよ!」


 妙齢の女がたった今、母となった女性へと呼びかける。母となった女の苦悶に歪んだ顔は、わずかな安堵を見せてほころんだ。


「見せて……ちょうだい」

「はっ。産湯に浸けますので、今しばらくお待ちを」


 血や垢を洗い取られた赤子は依然として大きな泣き声を上げていて、息も絶え絶えな母を、まるで応援しているようだった。


「はい、奥さま。見てください、元気な男の子ですよ」

「ありがとう、マルタ。……ふふ、かわいい。わたくしの、愛しい子」


 くしゃくしゃの顔で泣いていた赤子は母の声に気付いたのか、泣き疲れたのか、はたまた別の何かに気を取られたのか。いずれにせよ、赤子は泣き止んだ。その姿に母親は満足げに微笑むと、頬を優しくひと撫でしてから、先ほどの女性──マルタに、自分の赤子を託した。


「ふふ、かわいらしいですね。目元など、ほら──奥様そっくりですよ!」

「あらあら……厳格で名高い、侍女長の貴女に、そんなに柔らかい顔をさせてしまうなんて、わたくしの子が、将来女の子を泣かせやしないか、今から心配になってしまうわ」


 ころころと鈴鳴りに笑う母親に、マルタはからかわないでください、と苦笑を浮かべた。


「わたしもこれからは、この子の乳母となるのです。奥様の大切な御子を、そんなふしだらに育てられるものですか。絶対にこの国を担う、立派な男児に育て上げて見せますよ!」


 眉を正して信念に燃ゆる瞳を映やすマルタは、まるで情熱を宿す若き政治家のようだった。その様子に、母親の女はひとしきり笑っていた。そして、その時は突然やって来た。


「マルタ……どうか、お願いね。わたくしの、親友。わたくしの、かわいい、子を──」


 窓の外で、枯れ葉が一枚落ちた。メリッサの髪と同じ赤枯れ色した葉が。風にさらわれた。


「奥さま……?」


 問いかけども返事はない。シーツに沈んだ手はゆっくりと開かれ、まるで見えない何かがこぼれていくようだった。脳裏を(よぎ)る不安に駆られ、マルタはさあっと顔を青ざめさせた。


「奥さま、奥さまッ、お気を確かに!」


 誰か、と呼びかけるまでもない。いや、実際には呼びかけたものの、みな己の役割を理解して、それぞれが最善を尽くしていた。しかし数刻待って得られた成果は、一同の期待していたものではなかった。


「残念ですが──奥さまは、もう……」


 そんな……メリッサが……?


 無情なものだった。やりきれない喪失感にマルタのこめかみには、鈍器で殴られたような衝撃が突き抜けた。吐き気がする。到底受け入れられない現実に、視界が歪んでいく。


 赤子の母──メリッサとマルタは幼い頃からの付き合いだった。


 メリッサの両親が娘の()()の世話を任せる際に、白羽の矢を立てられたのがマルタだ。


 幼い頃のマルタは、今では考えられないほど跳ねっ返りのお転婆だった。男勝りに剣など嗜み、それこそ男を相手取ったとしても、まったく引けを取らなかった。それが面白くないと罠をけしかけられ、危険な森で足を怪我して。ただ座して天命を待つしかないと黄昏の空に震えていたところを、通りがかったメリッサの馬車に救われた。


 これがメリッサが八歳、マルタが十八歳の頃の話だ。


 それから二人は友愛を深めた。少し歳の差はあったけれど、メリッサはマルタを姉のように慕い、マルタもメリッサに妹のように接していた。そうしてしばらくすると、二人が親友になるのだってすぐのことだった。


 剣も辞めた。元々地頭の良かったマルタはメリッサの身の回りの世話をする傍らに語学の分野にもめざましい才能を開花させて、執務から何までこなして。彼女はとうとう至らないところのない完璧な侍女となった。当主代理である執事の仕事を手伝うことも増え、それはメリッサが嫁ぐまで続いていった。


 メリッサの嫁いだ先は由緒正しき家柄であった。王家の血筋という、やんごとなき一族の生まれであり、国家の存亡を背負う、国の防衛機関を役職とする、軍を率いる軍師であった。


 歳の差は十六と三十二。倍近くある。


 しかしその歳の差に噂するものはいなかった。それだけの権威を持っていたからだ。誰の目にも明らかな政略結婚であったが、メリッサとマルタは気にしなかった。メリッサは相手の男を尊敬していたし、そんなメリッサが信じた相手を、マルタがいかように思えるはずもない。


 ──そう信じていた。今日、この日までは。


 何故あの男はここへ来ないのだ。愛する妻が己が子を産み、その使命を全うし、その命を費やした。否、そんな事はどうでも良い。


 我が友が、何故こうまで冷遇されなければならない。身分が低いからか。首に瑕疵(かし)があるからか。それとも、女夫となったのも、ただの戯れだったのか。そこに愛は在ったのか。


 様々な思いが巡った。そしてそれは好転的になることなどなく、天に帷を構える闇夜より深い絶望が入り乱れ、いたずらに、ただ静かにマルタの心を蝕んでいった。


 葬儀が終わり、埋葬が済んだ頃、当主の男は帰郷した。防衛戦は無事成功を収め、凱旋を終えた直後の帰宅であった。国を挙げての祝いを受けた男の乗った馬車が見えると、マルタは針のように鋭い視線を送り続けた。そうして馬車から降り立った、身なりの立派な男から上着を預かったマルタは、居ても立っても居られずに、真っ先にメリッサのことを耳打ちをした。


「奥様が、身罷(みまか)られました」

「……そうか」


 決定的となったのはこの会話であった。マルタがメリッサの訃報(ふほう)を伝えると、当主の男は一瞥(いちべつ)に短い言葉を添えて。(とうと)い琥珀色の瞳を目蓋の奥へしまい込んだ。そしてそのまま傍を素通りしていくと。マルタは吹き抜ける乾風に、ただ静かに涙した。


 そしてその直後、マルタの中に(はげ)しい怒りが込み上げてきた。


 お前の愛する妻が亡くなったのだぞ。そこに悲しみや苦しみは何一つ無いのか。私の親友は、そんなつまらない男に嫁いだがために命を落としたのか。


 無性に怒りが込み上げる。手の内に収まる形見のペンダントが、ミシミシと悲鳴をあげた。それから思い出したかのように我に帰ると、当主の男に渡すつもりだったそのペンダントを、マルタは、殺意にも近しい怒りと共に、そっとポケットの奥へとしまいこんだ。


 ──あの子と、ここを離れよう。


 マルタは、そう決意した。


 親友の産み落とした子をここにいさせては、きっと幸せになれない。妻を妻とも思わぬ男が、子を子と思うものか。そう思い至ったマルタは、親友が我がことのように喜んでくれた、ある日の言葉を思い出した。


『かわいい男の子ね! わたくしが御子おこを授かったら、きっと仲良くしてね?』


 ──そうでありたかった。我が子の生誕を祝ってくれたメリッサのお日様みたいな笑顔は、もうこの地上のどこにもない。マルタは目を閉じると、ただ静かに曇った夜空を仰いだ。


「母ちゃん、どこ行くの?」

「ここじゃない、どこか」


 アテなどない。ただもうこの地にいることはできなかった。どの場所にも、親友ともの面影を見てしまうのだから。


 疲れ果てた顔に、擦り切れそうな声帯が、手を引く我が子の問いかけに対し、虚ろな声をかすかに震わせると、やっとの思いでそう答えた。ここを離れる決意を固め、ついには決行された。もう後戻りはできない。


 腕に抱く親友の子へと視線を落とすと、赤枯れ色をした愛おしい薄髪が、夜風に撫でられささらと揺れ動く。これで良かったのかは分からない。これは自分のエゴなのかもしれない。ただ夏の夜の、不快感を煽る生暖かい風だけが、マルタの背中を小さく後押してくれた。


「さよなら、メリッサ」


 夏の終わり。湿っぽい風に、銀の雫が月夜の下、静かに煌めいた。


 ──その日、一人の侍女長と、その息子が消えた。同じくして当主の息子も誘拐されて、大騒ぎになったという。事件は未だに解決しておらず、犯人であるとされるその女は、今日(こんにち)に至るまでずっと、見つかっていないようだった。

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