第七十九話『選び取った未来』
「エレノアッ!」「きゃあっ!」
執務室の扉を乱暴に開くと、エレノアは肩を飛び跳ねさせた。紙面に走らせていたペンが迷いを帯びてうずくまり、エレノアは「ノックくらいしなさいよ、ばか!」と、ブランクを責め立てた。
しかしブランクはといえば、興奮冷めやらぬ様子でエレノアに詰め寄った。
「それどころじゃないんだって、ついに、ついに僕の能力が分かったんだ!」
「あなたの能力?」
エレノアは何が何やらと言わんばかりにズレていた眼鏡をケースにしまうと、それを机の中にしまった。
「あなたの能力が何かなんて興味が……ないことはないけど。それとわたしに一体何の関係があると言うの?」
「最近調べ物をしていただろう? 僕は、自分の能力について調べていたんだ。そしてついに分かった。僕の能力は、時間を遡る能力なんだっ、この力を使いこなせばきっと──!」
ブランクは言葉を絶った。話し続けることができなかった。
「ぁ──」
エレノアが椅子から転げ落ちたからだ。受け身すらまともに取らず、腰を抜かしたように、エレノアはブランクの元へと足を引きずりながら、近く寄る。その痛ましい様子に、ブランクは慌てて駆け寄った。
「ちょっとエレノ」「あなたが──」「──!」
エレノアは……泣いていた。切望を宿したような、あるいは常闇に光を見出したような。縋るような手がブランクに伸びた。その手が力尽きようとして。思わず床に落ちるのをためらい、ブランクは受け止めた。
「エレノア、大じょう──」「あなたが、そうなのね。あなたが……」
エレノアはブランクの両頬に手を這わせた。息のかかるほどの近くに少女の顔が寄ると、ブランクの鼓動は段々と高く加速していく。
「ずっと探してた。あなたを。あなたの持つ力を……」
「ちょ、ちょっとエレノア、近いってば!」
ブランクが慌てて顔を背けると、エレノアは名残惜しそうに吐息を漏らした。
「そう、ね……。そうだわ。わたし、ちょっと焦り過ぎてたみたい」
それで──、と。エレノアは立ち上がって背中を向けると、鈍色の空広がる窓の向こうを見た。
「あなたが今わたしにそれを伝えたということは……あなたは、わたしの力になってくれると。わたしの罪を浚ってくれると。そういうこと、なのね?」
信じていいのね? と。頼りなく揺れる声は、念を押すようにブランクに尋ねる。そんなことをなぜ聞くのだろう。ブランクは不思議に思った。
「もちろん」二つ返事に応えた時。振り返ったその少女は、すこし切なそうな顔をしていた。罪悪感を背負ったような顔に、ブランクの胸がチクリと痛んだ。そんな顔をして欲しいわけではないのに、どうしてそんなに苦しそうにしているのか。それだけがわからなかった。
「あなたは……それでいいの?」
「……もちろんだよ、君にはたくさんお世話になったんだから」
何をそんなに怯えているのだろうと、ブランクの中にある疑念はどんどん膨らんでいった。しかし次の瞬間、少女の固く結ばれた桜色の唇は、静かにその心の内を切り出した。
「あなたは……自分の家族のことを諦められるの?」
「……あっ」
エレノアの一言がガンと頭を揺さぶった気がした。さあっと血の気が引き、鼻の奥に刺激が広がり、目蓋が痙攣して。全身が自分の愚かさに羞恥して、燃え盛っているようだった。それと同時に、意識の遠のくような感覚があった。
すこし考えさせてほしい。そう言って、踵を返した感覚を思い出した。その時の声の鋭さ、ひねり出すような低い唸り。それが今生の別れであると気取られぬはずなどないというのに。
ああ。きっとこの日この時この瞬間だったのだ。ネロの元へと向かう時に見た、エレノアに背中を向けた自分の姿とは。
喉の奥に焦げついたような苦味を感じた。頭の中に虫でも住んだように気持ち悪くなった。彼女の言う通りだ。この力を使いこなすということは、あの日引き離された家族を取り戻すことすらも可能にするということだ。
何故今まで気づかなかったのか。あるいは気づかないフリをしていたのか。いや、そんなことはどうでもいい。
今の今まで自分は彼女の正義の味方ヅラをしていたというのに、いざその核心を突かれると言葉を詰まらせて、二の足を踏んでしまっている。
ブランクはそれを、心底気持ち悪いと思った。何と情けない。それなのに、彼女の言葉にまだ報いることができていない。
(答えろ、答えろ、応えろ……!!)
そう念じるのに、唇が震えてうまく動かない。奥歯が軋む。舌が縮む。目が現実を見たくないと言っている。
なんと情けない。生き恥を晒すことの、なんと恥ずかしいことか。呼気を整えることすらできないまま、ブランクは、目の前の少女を見た。どんな顔をしているのだろう。哀れんでいるのか。それとも、情けないと幻滅しているだろうか。
「……」
ブランクは、己を恥じた。目の前にいる少女は気高くはあれど、年相応の悩みや苦しみを持った少女なのだ。それを知っているはずだったのに、己を叱咤してくれたらと、浅はかな願いを無意識に押し付けていたのだろう。
エレノアは頼りなく揺れる瞳を懸命に矯めて、ブランクを見つめていた。祈るように両手を重ね、震える手を健気に隠している。唇など固く結んでいなければ今にも嗚咽が聞こえてきそうで、まるで置いてけぼりを食った幼い子どものようだった。
(バカだな、僕は……)
ブランクは静かに目を伏せた。彼女のためならなんだってすると、そう決めたばかりなのに、どうして彼女を裏切ることができるのか。何よりも、泣き崩れる彼女の姿など、見たくない。もう、見たくはないのだ。
胸の内に響いていた警鐘は静かに遠のいていった。鼓動が落ち着きを取り戻すと、部屋の明るさがすこし増した気がした。
ずっと自分の言葉を待ってくれている。そんな優しい彼女の期待を、裏切るなどあってはならない。
「諦めるわけじゃないよ。僕は、この力を君のために役立てたい。何より──」
これを言うのは、ブランク自身も恥ずかしい。でも、ジャンならきっと言う。
「言っただろう? 僕は君に、笑っていてほしいのさ」
エレノアはきょとん、と呆けた顔をしていた。数回目をパチクリして反芻し、ブランクの言葉の真意を測っているようだった。
「ふ……なにそれっ」
それから──エレノアは笑った。緊張の糸が切れたのか、エレノアは目尻から溢れた涙を掬い取り、それを見られたくないのか、ブランクに背中を向けた。
「良かった。すこし不安だったの。あなたがどこか遠くへ行ってしまうのではないかって。実は、すこしだけ心細かった。その力のことを差し引いても、わたしにとってあなたはもう、側にいてくれなくては困る存在になっているから」
エレノアはそう言うと、ブランクに向き直った。
「よろしくね、わたしの騎士さま」
なんてね、と笑う少女の顔は、心なしか曇りが晴れている気がした。
ブランクは選び取った未来に、確かに心が綻んだ。




